第10話 淋珂の不安

翌日、まだ日が出て間もない頃。


淋珂は部屋から出て屋敷の屋根に座っていた。




「おや、淋珂様。どうなさったのですか?」


「(陰)か、脅かさないでくれ」


「仕方がありませんよ、私自体隠れる事が得意なのです。」




瓦の上に平然として立ち、淋珂を見ている(陰)。


淋珂には、その姿に桃清妃と似た神聖さのようなものを覚える。




「果たして私は、与えられた任務をこなせるのだろうか・・・」




(陰)はそれを聞くと、朝日のほうを向き言った。




「心持ち次第で、それは何とでもなると思います。淋珂様、貴女は自分に自信がありますか?罪とはいえど、仕事のためにその手を汚してきたあなたは、今まで弱気になったことは無いでしょう?」


「弱気になるという、発想すら無かったな」




(陰)は「そうです」と頷いている。


そして微笑みながら続ける。




「貴女が今まで失敗してこなかったのは、心が無かったから、良く言えば、後ろ向きな心を持っていなかったからです。貴女は悪行とは言えど、多くの難題をこなして来たのでしょう?其れならば自信を持って下さい」




淋珂の心に満ちていた不安が、(陰)の言葉によって薄れていく。


自分が今までやって来た事は、やはり罪だ。


しかし、其れを咎めず(陰)は自分を勇気付けてくれた。


その事実が、淋珂にとって何よりも救いだった。




その後、淋珂は部屋に戻った。


(陰)はそのまま何処かへ行ってしまった。




「淋珂様、お目覚めですか?」


「ええ、どうぞ入って」


「失礼します」




泉喬は今までとは違い、心の底から女官であった。


淋珂は泉喬の豹変ぶりに驚きながらも、此れが後宮入りをするということか、と納得した。




「泉喬、ひとついいかしら?」


「どうされましたか?」


「今日は、何をするの?」


「明日の動きの把握くらいかと」




泉喬は頭を下げつつ端的に述べる。


まるで人が違うかのようだ。


今までの泉喬を見てきた淋珂には、何かが物足りない。


身分という事は関係なく様々な感情を見せてくれる泉喬を、今の淋珂は心のどこかで欲していた。




「泉喬、せめて屋敷にいるときはいつもの話し方をしてくれない?」


「どうしてですか?」


「貴女がそんな感じだと、なんか嫌なの。」




やれやれというような表情を見せる泉喬。


その表情を見ると、淋珂は嬉し気に微笑んだ。




「それでは、始めましょうか」




それから短時間で婚姻の儀の動きについての説明が始まった。


当日どのような服装で、どのように立ち振る舞うのか。


それを覚えるだけで、淋珂は頭がいっぱいになった。




「さすがに難しくない?」


「大丈夫ですよ、失敗させません」




泉喬が笑みを見せた。


淋珂は本能的に泉喬の笑みを警戒している。


今までの経験則が、泉喬の笑みを恐れるのだ。


何故か震える足、口の中に苦参の苦味が蘇る。




「明日、本番よね?」


「大丈夫です。見た目に影響が出ない程度に、叩き込みますから」




もしも結果が変わらないとしても、泉喬にあんな事を言わなければ良かった。


ただただ淋珂は自分の言動を後悔した。




「明日は、キチンと動いて下さいね。それでは失礼します」


「分かったわ、また明日」




やはり泉喬は狂っている。


どうしてして人間があのような性格になるのか。


淋珂は近くにあった椅子に腰を下ろす。


そして卓に突っ伏した。




「婚姻って、ここまで面倒な事なの?」


「淋珂様は、貴族では無い唯一の妃。其れ用の教養を身に付けていないので仕方がありませんよ」




(陰)は淋珂の後ろに立ち、卓に突っ伏したままの淋珂を見ている。


それからお茶を入れ始めた。




「恐らく、多少なら王様も手伝って下さるでしょうし。心配する事は有りませんよ」




何時も(陰)の言葉は淋珂の心を軽くしてくれる。


優しい言葉や温かい言葉が、淋珂の心を解きほぐす。




「ありがとう」


「良いんです、今日は早めに寝て下さいね。一応泉喬さんは早めに切り上げてくれたんですから」


「そうする」




ボーっとした声で言うと淋珂は寝台に向かう。


いくら暗殺によって体が鍛えられているとはいっても、今使わなければならない筋肉は通常あまり使うことのない筋肉。


淋珂はそういった意味では一切鍛えてはいないため、非常に疲れが溜まりやすい。




「疲れ、か」




今まで忙しすぎて気が付かなかったが、淋珂にとって疲れというのは最近感じたことのない感覚の一つだった。


後宮に入る前までは暗殺術のため体を鍛え、体力を付けてきた淋珂には、普段の仕事では疲れを感じることが無かったのだ。




疲れを感じた身体を寝台の羽毛がやわらかに包む。


今までは絶対にこのような場所で眠ることは出来なかった。


人を殺しては藁を引いた地面で眠り、翌日また人を殺す。


自分の意志ではないとはいえ、何の罪もない人を殺してきた。




「自分が感情というものを知った所為で、このようなことを考えねばならないのか・・・」




こんなことになるのなら、今まで通りに何の意思も持たぬ人形として人を殺していればよかった。


そうすれば、このような気持ちを感じることもなかったのだから。




(そうだな、でもそれは命令によって、だろう?お前自身に欲があったわけでも、私的な恨みがあったわけでも、無い。まぁ感情がなかったってのはやりすぎではあるが、心自体は穢れていない。)




以前に劉様からかけてもらった言葉。


それが頭に浮かんできた。


今まで感じたことが無かった殺人への罪の意識。


何の罪も犯していない人間を殺すことは果たしていいのか。


今までの自分が罪を犯していた。


そんな実感は、正直今でもない。


ただ、この言葉を聞いて、淋珂自身でも気が付いていなかった靄が晴れて行ったのだ。




「私は、知らない内に罪の意識を感じていたのか」


「それでいいと思います。今まで意識していなかった罪の意識を抱く。それでも十分な成長ですよ」




今まで黙っていた(陰)が口を開いた。


そして淋珂にお茶を渡す。


そっと体を起こすと、淋珂はそれを受け取った。




「これからは、たくさんこの国のために働くのです。それはすなわち桃清様のために働くという事、つまり徳を積むという事にもつながります。自らの身を守るそういった意味での護身であれば、貴女の殺しの力も役に立つのではないですか?」




淋珂は(陰)の言葉によっていつも心を救われる。


感情を持ち始めてまだひと月も経たない淋珂は、まだ心は弱い。


(陰)はそのことをよく知っていた。




「それでは、おやすみなさい」


「ええ、おやすみ」




(陰)は部屋から出て行った。


淋珂は寝台に寝転がると目を瞑る。


そしてそのまま、深い眠りに落ちた。







「淋珂様、入りますよ」




泉喬の声で淋珂は目を覚ました。




「ええ、入って・・・」


「まだ眠っていらっしゃったのですか?もっときちんとしてくださいよ」


「こんなによく眠れたのは初めてだったから」


「良かったですね、では起きてください」




問答無用で体を起こしてくる泉喬。


そんな泉喬に負けて、ようやく淋珂は体を起こした。




「そんなに急かさなくともいいでしょ?」


「そんなに急かさなければならない時間だからです」




泉喬はバタバタとしながら淋珂に言う。


そんな泉喬を見ながら、淋珂は眠い目を擦った。




「少しでも良いのでご飯を食べて下さい。そしたら着替えに移ります。婚姻の儀自体は日が昇ってから始まりますが、その前に梅花宮仕えをする女官との顔合わせがあります。お願いしますよ」




泉喬は淋珂を過保護なくらいに手伝い、起きて僅かな時間で出発の準備を整えさせた。




「もう既に女官、宦官達が外で待っています。あまり待たせては不信感に繋がりかねません。早く!」


「分かったってば」




淋珂が返事をすると、泉喬が屋敷の扉を開いた。




「「「「おはようございます、淋珂様」」」」




12人の男女が石畳の上で膝をつき頭を下げている。


初めての体験をした淋珂はそこに硬直した。




「驚いたら固まる癖、どうにか出来ませんか?」


「意識していないものには干渉できないだろ・・・でしょ」


「本番中に絶対やらないでくださいね?」


「分かった」




目の前に整列する女官7人と宦官4人。


其々の名前までは覚えられてはいないが、泉喬が「何か用があれば私にお伝え下されば」と言ったため、淋珂は「宜しくお願いします」と一言だけ言って、婚姻の儀の会場、天羅宮へと足を進めた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る