第9話 泉喬の作法指導
泉喬の叱責が終わった後、淋珂は一人で寝台で寝転んでいた。
結局月が沈みかけるまでずっと説教を聞く羽目になった淋珂は、なにもやる気が起きなかった。
しかも淋珂の頭の中は桃清のことでいっぱいになり、他は何も考えられない。
そして太陽が昇りきるまで、ずっと寝台から動かなかった。
「淋珂様、こんな時間まで拗ねていないでください!」
「拗ねてなんかいない、ただ考えることが多すぎてやる気が起きないだけだ」
「一体何をそんなに考えることがありますか。まだ桃清妃にしか顔を合わせてもいない、仕草もまだ毛が生えたくらいにしかできない。外での言葉遣いは少しマシになりましたが、貴女にほかのことを考える余裕なんてありませんよ」
泉喬は淋珂の背を寝台から引きはがすかのように持ち上げると、ずいっと顔を近づける。
「今日から三日間で私はすべてをあなたに教えます。なぜなら婚姻まであと四日ですから。だからこれほど気を付けているのに、逃げ出したら・・・。許しませんよ?」
「はい」
顔が本気だった。
淋珂は目の前にトラがいると錯覚した。
牙も持たない、爪も持たない。
ただ、目の力と醸し出す雰囲気で人を震え上がらせる、そんな女が淋珂の顔から親指ほどの距離にいる。
今までで対峙した何にも劣らない威圧。
淋珂は今、とんでもないものに前後を挟まれている状況だった。
「地仙と虎・・・」
「それでは準備がありますのでいったん失礼します。」
先程とは打って変わった笑顔で屋敷から出て行った。
「独り言でも、地仙とは言っていけませんよ?」
自分以外だれもいないはずの部屋で声がする。
あたりを見回してみても誰もいない。
「誰・・・?」
淋珂が聞くと、声の主は姿を現した。
先程まで泉喬が立っていた淋珂の前に、両膝をついて礼をしている。
「桃清様からあなたの補助を言いつけられました、(陰)と申します」
「だとしたら、貴女も地仙?」
「はい、まだ500年ほどしか修練をしてはいませんが。ですがきちんと徳は積んでいますので、ご心配無く」
桃清妃に仕える地仙達は一体どんな存在なのだろうか、と淋珂は疑問を持った。
地仙に仕える地仙。
何か序列が存在するのか、そんなことが頭をよぎる。
「悪行以外なら、手伝うの?」
「そうなりますね。後は桃清様のお言葉を伝えるという役目もあります」
「そう、泉喬には気付かれないようにしなさいよ」
「心得ております」
「そう」と淋珂が呟くと、(陰)は一礼し何処かへ消えた。
ふわりと何かの香りがする。
何処かで嗅いだことのある甘い香り。
桃清妃の地下室で嗅いだ、薬の香り。
「淋珂様、授業の準備が出来ました。今日と明日は一睡も出来ないと思っていて下さい。キチンと気付け薬を薬事院から貰い受けて来ましたので」
「眠らない事は、後宮の妃がしていけないのでは無かったの?」
「ですから“二日”と言ったのです。最後の日はしっかりと眠れますよ」
「泉喬、桃清妃は、お薬を煎じるの?」
泉喬は目を丸くして淋珂を見る。
其れはまるで犬が突然話し出したのを見たかのように。
そして泉喬は、梅花宮に持ち運んできた箱の中から一つの箱を取り出した。
「桃清様に、お聞きになったのですか?」
「いや、決してそういう訳では「なら何処で?」
被せるように聞いて来た泉喬の目は、怖かった。
何とも言いがたく、ただ淋珂は恐怖を覚えた。
「冗談・・・。桃清妃に聞いた」
「桃清(妃)に、ですか。そうですよね」
泉喬は何かに納得したかの様に頷く。
「其れでは、授業を始めましょう。私は些細な違いも見逃しません。もし、替え玉なんて使おうと思ったら、大間違いですから、ね?此れは淋珂様のために行う物なのですから」
少し声を大きくして言った。
まるで何かが見えている様だ。
しかし、その後はいつも通りの様子で指導が始まった。
「ではまず、その薬のことからお話ししましょうか。これを見てください。」
箱の中には草の根を乾燥させた物や草、木の枝そのものが入っている。
実際毒を作ったことがあった淋珂は、薬もそれと同じ類なのかと推測する。
「これは眠気覚ましの薬の原料です。こちらを煎じて飲んでいただきます。」
「これは?」
「
桃清妃め、余分なことを・・・。
淋珂は桃清妃を心の中で睨む。
「そして、どうしても無理って時は教えてください。
次に出してきたのも木の根だった。
何の変哲もないただの乾燥した木の根だ。
淋珂はそれを馬鹿にした。
「私がただの木の枝をなめるだけのことで嫌がると?」
「なら舐めて見えください。きちんと味わってくださいね?」
掌に小さな木の破片をのせる泉喬。
それをこちらに押し付けてくる。
「どうぞ」
「あぁ、やってやるよ」
口に木の破片を放り込む。
口に入れて瞬間に広がる苦味。
それはやがて口の感覚を麻痺させてくる。
「オエッ、一体何なんだこれ」
「だから苦参と言っているでしょう。漢方薬の一つです」
「こんなものが薬であってたまるか!」
「良薬は苦いものなのです」
泉喬が指を唇に突き立てて言う。
「寝たら、コレですよ?」
「一応私は妃ですよね?」
「えぇ、もちろんです。そして私は貴女の教育係、貴女に恥をかかせることは絶対にさせてはいけないんです。それがやがて王様の恥となってしまわないように」
泉喬は笑っていた。
それは楽しそうに、手の上で苦参と呼ばれる木の根を転がしながら、淋珂の目を見て笑っていた。
「それでは、本題に入りましょうか」
それから丸二日間、淋珂は泉喬に後宮でのしゃべり方や動き方、作法を徹底的に叩き込まれた。
「もう葛根湯は飲みたくない、あとこれから何を食べてもおいしいと感じられる自信がない」
「お疲れ様です、やればできたじゃないですか」
泉喬はただの女官であるはずなのに、いくら長い間起きていても微塵も眠たそうな雰囲気を出さず、淋珂が苦参の苦味で悶絶しているのを笑って見ているだけだった。
それは、暗殺者である淋珂が(恐ろしい女)と心から思うほどで、ただの女官ではなく半ば狂人と呼もおかしくない。
「貴女、色々と狂っているわね」
「いえいえ、貴女に言われたくはありませんよ」
泉喬の挑発的な態度はいつでも淋珂を苛立たせる。
女官が曲がりなりにも妃である淋珂に向けて良い態度ではない。
しかし、そろそろ淋珂も其れに慣れてきた。
「漸く明後日は本番です。明日は婚姻の儀での淋珂様の動きをお教えします。」
「直前でやって出来るものなの?」
「こんなに押したのが誰のせいか、分からないとは言わせませんよ?」
淋珂は両手を挙げ、面倒くさそうに言った。
「分かったから、もう良いか?」
「明日からは原則、誰に対しても(相応しい)言葉でお話しして頂きます。王様には勿論、私にも」
「分かった」
「では」と言うと泉喬は礼をし部屋から出て行った。
急に淋珂の力が抜ける。
泉喬のいる間、ずっと身体に力が入り続けていたらしい。
明日体が痛くならないことを祈るしかない。
今までは、この様な心配をすることが無かったな。
淋珂はため息を吐くとそのまま寝台へと向かった。
「婚姻の儀、か」
つまりは実質的に後宮入りをするという事。
此れからは自分も梨澄妃と鈴徽妃、そして劉が苦手としている、明香妃からの目を気にしなければならない。
淋珂には今までは実感が無かったが、今になって自分の置かれた状況を、より深刻にそして明確に自覚したのだった。
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