154 11月28日(火) ユニークおじさん登場
所要があって久しぶりに飛行機に乗った。その飛行機の中で、なんともユニークなおじさんに出会った。今日はそのおじさんの話をお伝えするよ。
個人が特定されるといけないので、飛行場の名前などは出さないようにしたい。だから、国内のA空港から国内のB空港へ飛行機で移動したときのこととして話を進めますね。
ということで、先日、僕はA空港からB空港へ向かう飛行機に乗ったのだ。
A空港で乗客が全員飛行機に乗り込んで、飛行機のスタッフが離陸準備をしているときのことだ。
僕は通路側の座席、そのおじさんは僕の右隣の窓際の座席だった。おじさんは高齢というほどではなく、中年の後半といった年齢と見受けられた。
さて、そのおじさんは僕の後から飛行機の中に入ってきたのだが、座席に座るとすぐにバッグから何やら紙のファイルを取り出した。そして、そのファイルをペラペラとめくり始めたのだ。
しかし、そのうち、おじさんがそのファイルを僕の方に突き出してきた。座席の前でファイルを広げたのでは狭かったのだろう。でもそのために、僕の右腕の前がおじさんのファイルでふさがれた状況になった。僕は右腕を全く動かすことができず、窮屈で仕方がなかった。
「おい、おい、おじさん、もう少しファイルを引っ込めてくれよ」と思ったが、こういったことを口に出すのはなかなか難しい。で、僕は我慢していたのだ。
しかし、「なんとも迷惑なおじさんだ」と思った。
僕の身体の前にファイルが突き出されていたので、自然と書いてある内容が眼に入ってきた。ファイルには『なんとか臨床研究会』と書かれていた。
臨床研究会・・・ということは、このおじさんはお医者さんだなと思った。あるいは、医師の資格を持っていて、大学の先生をしている人かもしれない。
飛行機の到着地のB市の郊外には温泉がある。それで秋になると、B市でよく『温泉をセットにした学会』が開かれるのだ。どうも、このおじさんはそういった学会に出席するようだった。
そこへ、CAのお姉さんが離陸前の機内点検にやってきた。お姉さんが、おじさんを見ると言った。
「お客様。恐れ入りますが、まもなく離陸いたしますので、お足元のバッグは前の座席の下にお入れください」
ご存じのように、機内ではバッグは前の座席の下か、座席の上の荷物棚に入れるのがルールだ。見ると、おじさんはバッグを足元に置いていた。それで注意されたというわけだ。飛行機に乗ると、こういう注意を受ける人をよく見かける。
おじさんはさっそくバッグを前の座席の下に入れようとした。でも、普通はみんな前かがみになって、手でバッグを前の座席の下に入れると思うのだが・・・なんとおじさんは、シートベルトを締めて座った姿勢のまま、足でバッグを前の座席の下に入れようとしたのだ。と言っても、足でバッグを押し込もうとしたのではない。サッカーのように足でバッグを蹴って、前の座席の下に放り込もうとしたのだ。
しかし、飛行機の床というのは滑らないように出来ている。だから、おじさんがいくら足で蹴っても、おじさんのバッグはなかなか前に動かないのだ。おじさんは意地になって、自分のバッグを蹴り続けた。しかし、ときどき足が空振りして、横に置いてある僕のバッグを蹴っているのだ。
「おい、おい、おじさん、やめてくれ。それ、僕のバッグだよ」と思ったが、これもなかなか口に出せませんね(笑)。。。
それでも、おじさんのバッグは少しずつ動いていって、ようやく前の座席の下に入った。やれやれと安堵する僕。。。
おじさんも安堵して、再び紙のファイルを読み出した。
「なんとも慌ただしいおじさんだ」と僕は苦笑した。
それから少しすると、CAのお姉さんたちが通路に並び、アナウンスが流れて救命胴衣の説明が始まった。離陸前の最終行事だ。アナウンスに従って、CAのお姉さんたちが、着ている救命胴衣に手を当てたときだ。
おじさんが、僕の左前に立っているCAのお姉さんに向かって、「はい」と声を出して片手を挙げたのだ。学校の授業中に、生徒が先生に「はい」と言って手を挙げますね。まさに、あの感じだった。
CAのお姉さんはびっくりして眼を見張った。そりゃそうだろう。救命胴衣の説明中に、乗客に「はい」と言って手を挙げられたのは間違いなく初めての体験だと思うのだ。
お姉さんは救命胴衣の説明の動作を中止して、僕の横まで来た。そして、おじさんに「どうしましたか?」と聞いたのだ。
他のCAのお姉さんがそれを見て、救命胴衣の説明のアナウンスを止めた。それで、飛行機全体のアナウンスが止まってしまった。
おじさんは、やってきたお姉さんにこう言った。
「すみません。忘れ物をしたので、ここで飛行機を降ります」
僕は「えっ」と思った。急病といったケースは別にして、乗客が「飛行機から降ります」と言うのを初めて聞いた。でも「ここで降ります」って・・・おじさん、これはタクシーじゃないよ。。。
CAのお姉さんも仰天して、こう言ったのだ。
「お客様。当機はもう出入り口のドアを閉めて、ロックもしております。エンジンもすでに掛かっていて、まもなく離陸いたします。こういった場合は、飛行機からはお降りになれない規則になっています」
しかし、おじさんは食い下がった。
「でも、大事なものを忘れてきてしまったんです。降りて取りに行かないと・・・」
お姉さんが優しく言った。
「それでも、お降りになることはできません。当機が目的地に着いてから、お電話で忘れ物のご連絡をされるとかして・・・対処をお願いいたします」
僕は通路側の座席だ。通路に立っているお姉さんと、僕の隣の窓際席に座っているおじさんは、僕を挟んだ状態になる。このため、どうしても二人がお互いに顔を突き出して、僕の眼の前で会話を交わすことになるわけだ。だから、僕には二人の会話の内容が手に取るように分かった。
おじさんは何とかして飛行機を降りたいと主張したのだが・・・結局、おじさんはしぶしぶお姉さんに従うことになった。まあこの場合は、従うしか道はないんですけどね(笑)。。。
こうして救命胴衣の説明が再開し、その後、飛行機は無事にA空港を離陸したのだ。
「なんとビックリすることを言うおじさんだ」と僕はたまげてしまった。しかし、話はこれで終わらなかったのだ。
飛行機が水平飛行に移った直後だった。おじさんが今度は僕に話しかけてきたのだ。
「もしもし、ちょっと、伺いますが・・・」
僕はおじさんの方を向いた。
「はい」
おじさんはこう言った。
「この飛行機はどこ行きですか?」
「はぁ?」
僕は本当に面食らってしまった。こんなに驚いたことはない。だって、電車の中ならば「これはどこ行きですか?」と聞かれたことは何度もあるのだが、飛行機では初めてだ。そもそも、飛行機でそんな質問をする人がいるわけがない。
僕は最初、おじさんが冗談を言っているのかと思った。しかし、どうもそうではないらしい。それで、こう答えたのだ。
「行先はB空港です。〇〇県のB空港ですよ」
すると、おじさんはこう聞いてきたのだ。
「では、さっき離陸したのは・・・あれは何という空港ですか?」
僕は再び「えっ」と思った。が、それは声には出さず、こう答えた。
「さっき離陸したのはA空港です」
なんと、おじさんは・・・もう飛行機が空を飛んでいるというのに・・・さっき飛行機が離陸した空港の名前も、これから飛行機が向かう空港の名前も知らなかったのだ。
僕は耳を疑った。そして、呆然となった。
これって本当だろうか? 飛行機の乗客が、自分が飛行機に乗った空港の名前を知らず、自分が乗っている飛行機の行く先も知らないなんてことがあるのだろうか?
しかし、そうなると・・・一体、このおじさんは、どのようにしてA空港にやってきて・・・そして、どのようにしてB空港行きの飛行機に乗ったのだろうか?
そんな僕の疑問が分かったのだろう。おじさんが笑った。
「あはははは。いや、この年になると、いろいろ物忘れがあって・・・」
そんな年でもなさそうだったが、僕は返す言葉を失っていた。
「はぁ・・・」
かろうじて、それだけを言った。
しかし、おじさんは再び紙のファイルに没頭し始めた。今度は僕に遠慮したのか、あまりファイルを突き出さなかった。だがそれで、おじさんとの会話は終わってしまった。
だから、僕はおじさんがB空港に着いてからどうしたのか知らない。
そして、『おじさんがA空港もB空港も分からないのに、どのようにしてA空港にやって来て、そして、どのようにしてB空港行きの飛行機に乗ることができたのか?』という疑問は解けないままになった。今では新たに、あのおじさんがお医者さんとして患者を診ているとしたら、大丈夫だろうかと心配にもなってきた。
最後は「大きな謎と心配を残してくれた、なんとユニークなおじさんだ」と僕は思ったのだ。
噓のような本当の話だ。
(追記)
この話とは全然関係がないのですが、近況ノートを更新しました。
https://kakuyomu.jp/users/azuki-takuan/news/16817330667580717953
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