142 10月21日(土) ブラジリアンワックス疑似体験記2 

 (前回から続く)


 2日目の幹細胞の採取が終わると、主治医が血管から太く長い針を抜いてくれた。これで、2日間に渡った一連の『白血球の幹細胞の採取』はすべて終了した。


 すべての措置が終わると、主治医が『特別室』を出て行った。『特別室』には看護師さんと『特殊な装置』の後片づけをする技師だけが残った。


 左の鼠径そけい部の針を刺したところは傷になっている。針を抜いたら、その傷口から当然だが出血がある。ふつうはすぐに出血が止まるのだが、僕の場合は、この出血がなかなか止まらなかった。そこで、看護師さんが止血のために、その傷口を指で押さえてくれた。


 さて、鼠径そけい部というと、男性の場合、ドジョウのすぐ横だ。当然だが、僕はドジョウが丸見えの状態で、『自分の白血球の幹細胞の採取』をしてもらったわけだ。


 僕が入院している階の看護師さんは全員が女性だ。そんな女性の看護師さんが止血のために傷口を押さえていてくれるときも、僕のドジョウは丸出しの状態だったので・・・看護師さんが力をこめると、そんな僕のドジョウがボヨヨンと揺れて、その都度、看護師さんの手に当たった。なんとも具合が悪いのだ。


 でも、ここは病院だから、そんなことは言っていられない。僕は極力、揺れるドジョウを意識しないように努めた。こんなことを考えていたわけだから・・・僕は自分の出血について極めて楽観的に考えていたのだ。


 こんな出血なんて、いつか止まるだろう・・・


 すると、『特殊な装置』を片付けた技師が僕の傷口を覗き込んだ。技師の声がした。


 「血が止まりませんねぇ・・・」


 言葉に『異常事態』というニュアンスがあった。


 僕の心臓がドキンとなった。えっ、こんな出血はすぐに止まるのではないの?・・・


 技師の声に看護師さんが応えた。


 「そうなんです」


 技師の声が重なった。


 「この出血をどうするかは・・・医師の腕に掛かってますよね」


 技師の言葉には、『自分の役割はもう済んだ。あとは医師の責任だ』というニュアンスがあった。


 医師の腕に掛かっている?・・・えっ、これって、そんなに危ない状況なの?・・・


 そう思ったが、僕は技師に確認することができなかった。何と言えばいいのか、分からなかったのだ。


 その技師の声に押されるように、看護師さんがナースコールを押して、主治医を呼んだ。技師が病室を出て行った。


 主治医が、技師と入れ替わりに、再び『特別室』にやってきた。主治医は傷口を見ると、今度は看護師さんに代わって自分で押さえてくれた。


 主治医が僕に言った。


 「こういった傷は手で押さえて、血が止まるまで待つしか方法がないんですよ」


 僕は有効な止血方法がいくらでもあるものと思っていたが、どうもそうではなかったようだ。一体どうなるのか?・・・僕の胸に一抹の不安がよぎった。


 それから、主治医と看護師さんが交替で・・・傷口を押さえ続けてくれた。・・・そうして、その日の夕方近くになって、ようやく出血が止まったのだ。


 やれやれだ。僕は安堵した。


 血が止まると、僕はまた車椅子に乗せられて、『特別室』から4人部屋に移された。しかし、再び傷口から出血する可能性があるので・・・僕はベッドから動くことを固く禁止されたのだ。トイレに行くことも禁じられた。


 それで、看護師さんが紙オムツを持ってきて、僕に当ててくれた。この日記の中で、僕は何回か紙オムツの体験談を書いたが、このときも、紙オムツのお世話になったのだ。


 そうして、ベッドの上で夕食を食べて・・・夜8時になった。


 紙オムツをされているときは、いつも夜8時に看護師さんが『オムツチェック』に来てくれる。これは、夜9時から夜勤の看護師さんの勤務時間帯なので、その前に、オムツの交換を済ませて置こうという病院の配慮なのだ。


 この日も、夜8時になると、若い看護師さんが来てくれた。


 看護師さんが明るい声で僕に言った。


 「永嶋さん。オムツ、チェックしますね」


 僕は「はい。お願いします」と答えた。


 紙オムツは形状の違いにより『テープタイプ』と『パンツタイプ』の大きく2種類に分けられる。『パンツタイプ』はパンツのように、足を曲げて『紙オムツを履く』のだ。一方、『テープタイプ』はお尻側から紙オムツを前に回して、腰の前でテープで止めるのだ。僕は鼠径そけい部の傷のために、足を曲げることができない。だから、紙オムツは『テープタイプ』だった。


 看護師さんは、ベッドに仰向けに寝ている僕のズボンを下げると、紙オムツの前のテープに手を掛けた。再び、看護師さんの明るい声がした。


 「オムツ、開けますよ~」


 「はい。どうぞ」


 看護師さんがテープを外して・・・紙オムツを開いた。


 その瞬間、看護師さんが息をのむのが分かった。


 僕は傷のために身体を折り曲げることができない。だから、自分の紙オムツの中を見ることはできないのだ。


 看護師さんは傷を見つめている様子だ。緊張が僕に伝わってきた。


 何かあったのだろうか?・・・


 看護師さんが慌てた声で何か言った。でも、僕には彼女が何を言ったのか、聞き取れなかった。それで、あいまいに「はぁ~」とだけ答えた。


 すると、看護師さんは、紙オムツを開いたままにして、急いで病室を出て行ったのだ。僕は紙オムツを開いた状態のままで少しの間、放置された。


 すぐに、若い看護師さんが、ベテランの看護師さんを連れてきた。


 ベテランの看護師さんが、僕の鼠径そけい部と紙オムツを交互に覗き込んで言った。


 「うわ~。すごい血が出てる・・・」


 えっ、血?・・・


 思いもよらない言葉だった。血がまた傷口から出ていたなんて・・・僕には全く自覚症状はなかったのだ。また、ベテランの看護師さんの声がした。


 「とにかく、オムツを交換しましょう」


 若い看護師さんとベテランの看護師さんが二人がかりで、僕の紙オムツの交換に取り掛かった。そのとき、僕はちらりと眼を下半身に向けた。一瞬、若い看護師さんが持ち上げた紙オムツの内側が見えた。真っ赤だった。・・・次の瞬間、若い看護師さんが紙オムツを折りたたんだ。赤色が僕の視界から消えた。


 一瞬の出来事だった。だが、僕はショックを受けた。紙オムツの内側全体が、あんなに真っ赤になっているなんて・・・そんなに血が出ているとは全く知らなかった。


 僕のお尻に新しい紙オムツを当てても、看護師さんたちは、紙オムツを前に回してテープで止めることをしなかった。紙オムツを大きく広げた状態で、交替で、僕の鼠径そけい部の傷口に包帯を当てて、その上から指で傷口を押さえてくれたのだ。


 僕はベテランの看護師さんに確認した。


 「傷口から血が出ているんですか? 僕は仰向けに寝ている状態なので、自分では傷口が見えないんです」


 看護師さんが応えた。


 「ええ、じわっと染み出すように少しずつ血が出ています。・・・止まりませんねえ・・・」


 ベテランの看護師さんが当直の医師を呼んだ。もう夜で、主治医は帰宅していたのだ。当直の医師は、僕の傷口を見ると、恐ろしいことを言った。


 「押さえても血が止まらなかったら、血管の縫合手術をするしかありませんねぇ」


 僕はベッドの上で飛び上がった。といっても、鼠径そけい部の傷で僕は動くことができない。『飛び上がった』のは気持ちの上でだ。


 「ほ、縫合手術ですか?・・・」


 「ええ、数時間かかる、かなり大変な手術です。でも、主治医の先生が明日来られるまで、しばらく様子をみてみましょう」


 そう言うと、当直の医師は病室を出て行った。


 血が止まらなかったら、血管の縫合手術だって・・・


 なんだか大変なことになってきた。


 でも、僕はまだ余裕を持っていた。何とかなるだろうと思っていたのだ。


 そんな余裕の中で僕は思った。紙オムツを当ててもらっていてよかったと。。。紙オムツがなかったら、血が流れて・・・僕の下半身が真っ赤になっていたわけだ。僕は血を見るのが大嫌いだ。腕に予防注射を打つときでさえ、顔を横にそむけている。そんな真っ赤な下半身を見たら、僕はきっとショックで気を失ってしまっただろう。。。


 それから、ベテランの看護師さんが、僕に付きっ切りで傷口を押さえてくれた。若い看護師さんは、僕以外の患者のお世話に回ったようだった。


 長く入院生活を送っていると、看護師さんとも親しくなる。このベテランの看護師さんともそうだった。彼女はあるプロ野球チームの熱心なファンだった。僕も野球の話は嫌いではないので、よく彼女とプロ野球の話をした。


 このとき、僕は紙オムツをお尻に当てられて、ドジョウが丸見えの状態で、彼女に傷口を押さえてもらっていたのだ。ドジョウが揺れて、ときどき彼女の手に当たっている。なんともバツが悪いので、僕は何か話をしないといけないような気になった。で、いつものように、野球の話を彼女にしたのだ。まだ、シーズンは始まっていなかったが、オープン戦が始まる時期だった。


 僕が野球のことで、彼女に話しかけると・・・彼女はいつものように話に乗ってこなかった。代わりにこんなことを言ったのだ。


 「永嶋さん。野球の話で恐怖心をやわらげようとしているのでしょう」


 僕は驚いた。えっ、恐怖心?・・・


 ということは、僕の今の状態というのは、恐怖心を抱くほど危険なのか?


 でも、彼女はこう言って、自分の言葉を打ち消した。


 「でも、仕方がないわよね。自分が頑張れば、血が止まるわけでもないからね。こうなったら、なるようにしかならないわよね。もう、『まな板の上の鯉』のような心境なんでしょう」


 どうも彼女は何か勘違いしているようだ。でも、彼女の言葉を否定する気にはなれなかった。僕はあいまいに「そうですね」って、うなずいたのだ。


 しかし、この状態がそんなに危険なものだとは想像もしなかった! どうしたらいいんだろうと思ったが・・・でも、彼女の言う通りなのだ。僕ができることなどは何もないのだ。


 そうだったのか! そんなに危険な状況なのか! 


 僕は眼をつむった。まさに『まな板の上の鯉』の心境だった。


 それから、1時間ばかりも、彼女は僕の傷口を押さえ続けてくれた。


 すると、彼女の奮闘のおかげで・・・なんとか出血が止まったのだ。僕は心より彼女に感謝した。彼女も安堵してくれた。そして、彼女は夜勤の看護師さんと交替して、帰って行った。

 

 夜勤の看護師さんたちは相談して・・・僕の傷口に包帯を当てて、その上を強力な絆創膏で固定した。いつまでも、傷口を指で押さえるのはよくないのだそうだ。しかし、そうすると、紙オムツをテープで止めることができなくなった。そこで、看護師さんたちは、紙オムツも絆創膏で止めてくれたのだ。


 でも、いったん血が止まっても、いつまた出血が始まるか分からない。それで、朝になったら、絆創膏を外して、出血しているかどうか確認してみましょうということになった。出血していたら、血管の縫合手術もありうるわけだ。朝の出血確認が勝負の分かれ目になるのだ。


 僕はよく眠れない夜を過ごした。


 朝になって・・・当番の看護師さんが出血の確認にやってきた。


 いよいよだ。僕の緊張はピークに達した。再び出血していたら、血管の縫合手術なのだ。・・・心臓の鼓動が大きな音になって聞こえてきた。


 ここで、こんなときなのに、僕はもう一つ恐ろしいことに気づいたのだ。


 一昨日、僕は最初、右の鼠径そけい部に、『白血球の幹細胞』を採取するための針を刺された。このとき、右の鼠径そけい部の毛は、前日に看護師さんが剃ってくれていた。


 でも、何故か針が血管の中に入って行かないので、主治医が今度は左の鼠径そけい部に針を刺したのだ。そして、そのまま、うまく『白血球の幹細胞の採取』は終了したのだが、今度は傷口から出血があって・・・ようやく、出血が止まった後で、傷口を強力な絆創膏で固定されたのだ。


 その左鼠径そけい部の毛は剃られていなかった。ということは、毛が強力な絆創膏にくっついている訳だ。


 絆創膏がうまくはがれるのだろうか?・・・


 病室にやってきてくれた看護師さんが僕に言った。緊張のある声だった。


 「今から絆創膏をはがします」


 看護師さんが紙オムツを開けて・・・絆創膏を少しずつ引きはがした。僕の左の鼠径そけい部に激痛が走った。悲鳴と涙が出た。。。


 「ひぃぃぃ・・・」


 でも、看護師さんは出血の確認で頭がいっぱいだったようだ。僕の悲鳴を意に止めず、看護師さんは絆創膏をすべて引きはがしたのだ。そして、包帯をめくった。


 看護師さんから安堵の声が聞こえた。


 「ああ、よかった。血が止まっています」


 僕の緊張が一瞬にして溶けて行った・・・


 看護師さんがやっと手の中の絆創膏を見た。そして、笑った。血が止まっていたという安心感が、彼女を笑わせたのだ。笑い声の中で、看護師さんが言った。


 「そう言えば・・・この絆創膏って、まるでブラジリアンワックスですね」


 僕も笑った。僕も血が止まっていたという安心感で笑うことができたのだ。


 「そう、そう、それなんです。それって、ブラジリアンワックス、そのものですよ」


 窓から差し込む朝の光の中で、僕と看護師さんの笑いが病室に響いた・・・


 これが、僕のブラジリアンワックス体験だ。僕のブラジリアンワックス体験は、周りの人たちに助けてもらう体験でもあったのだ。


 僕は思った。


 本当に皆さんに助けてもらった。ブラジリアンワックスのいい思い出ができた・・・


 (追記)

 その後、左の鼠径そけい部の傷からは、わずかに出血するときもありましたが、あの夜の紙オムツが真っ赤になるような大きな出血はもう起こりませんでした。


 この左の鼠径そけい部の傷口を皆さんが一生懸命に押さえてくれたことで、血管の縫合といった大きなことには至りませんでした。


 病院の皆様には本当に助けていただきました。感謝です。

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