103 1月19日(木) シケタ商店街のシケタ眼鏡店

 僕の家の近所に、シケタ商店街があって、その中にシケタ眼鏡屋がある。


 『シケタ』というのは姓や名前じゃないよ。パッとしないという意味の『シケタ』だ。『シケタ』と書いたことで、もうお分かりかと思うが・・・僕は商店街にも眼鏡屋にもまったく好意を持っていないのだ。


 僕は普段、メガネを掛けたり、掛けなかったりしている。運転のときはさずがにメガネを掛けるが、常時、メガネが必要というわけでもないのだ。言っとくけど、老眼じゃないよ(笑)。まだまだ、若いからね(大笑)。


 さて、昔、こんなことがあったのだ。


 あるとき、メガネを新しく一つ買おうと思った。出張が多いので、出張用に壊れてもいいメガネが一つ必要になったのだ。出張用の壊れてもいいメガネなので、安いものでよかった。


 僕は、いつもは、会社の近くにある、有名チェーン店のメガネ屋に行くのだが、数日前に、新聞のチラシに近所の眼鏡屋の広告があって、1万円からと書いてあったのを思い出した。1万円なら安い。

 

 僕は近所の眼鏡屋に一度も行ったことがなかった。古ぼけた商店街の中にある、パッとしない眼鏡屋なので、行く気にならなかったのだ。しかし、1万円につられて・・・僕は会社の帰りに、そのパッとしない眼鏡屋に初めて行ったのだ。


 店に入ると、古ぼけた親父が出てきた。さっそく、僕は親父に「おじさん、広告にあった1万円のメガネをください」と言った。高いメガネを勧められて、断る手続が面倒だったので、最初にクギを刺しておいたのだ。


 レンズを合わせて、フレームを決めて・・・親父が購入の書類を書いて・・・さあ、お金を払う段になった。


 キャッシュカードを出した僕に、親父が新しいフレームを持ってきたのだ。


 「このフレームは新発売なのですが・・・耳に当たる感触がソフトだと評判なんです。さっきのフレームは安いので、長時間、掛けてると、耳が痛くなるんですよ。一度、こちらを掛けてみてください」


 僕はそのフレームを掛けてみた。う~ん。そんなにソフトかなあ? だが、買ったフレームよりはソフトな感じがした。


 親父が言った。


 「もう、5千円出していただいたら、そのフレームにしますが・・・いかがですか?」


 もう5千円ということは、全部で1万5千円かあ・・・まあ、1万5千円でも安いから、買ってもいいか。


 そう思った僕は親父に言った。


 「じゃあ、これにします」


 親父は新たに購入の手続きをした。そして、僕がまたキャッシュカードを準備したときだ。


 親父が今度はレンズを持ってきた。


 「このレンズは紫外線の反射率が〇〇パーセントで、眼にいいんですよ。さっきのレンズは安いんですが・・その分、どうしても、紫外線の反射率が悪くて、眼に負担が掛かるんです。あと、3千円出していただいたら、こちらのレンズに変えますが・・・どうですか?」


 買ったレンズは眼に負担が掛かるという言葉が、僕の胸にズシリと響いた。


 そうか。眼に悪いレンズなんて、イヤだなあ・・・3千円ということは、全部で1万8千円かあ・・・まあ、健康のためだから、買ってもいいか。


 そう思った僕は親父に言った。


 「じゃあ、レンズはこれに変えます」


 親父は新たに購入の手続きをした。そして、僕がまたキャッシュカードを準備したときだ。


 親父が今度は別のレンズを持ってきた。


 「このレンズは樹脂製ですから軽くて、傷がつきにくいんですよ。さっきのレンズはガラス製なので、重くて、割れやすいんです。あと5千円出していただいたら、こちらのレンズに変えますが・・・どうですか?」


 重くて、割れやすいレンズなんてイヤだなあ。あと、5千円ということは、全部で2万3千円かあ・・・まあ、プラス5千円なら買ってもいいか。


 「じゃあ、レンズはこれにします」


 親父は新たに購入の手続きをした。そして、僕がまたまたキャッシュカードを準備したときだ。


 親父が今度は別のフレームを持ってきた・・・


 こんな具合に・・・親父が次々と品を出してきて・・・1万円でメガネを買うつもりだった僕は、なんと、結局、5万3千円でメガネを買ったのだ。いや、買わされたのだ。。。


 読者の皆様は、なんてバカなヤツだと思われるだろう。まったく、その通りなのだ。


 あのとき買ったメガメは今でも机の引き出しに入ってる。あまりに高価というよりは、あまりにバカバカしいので、ほとんど使わなかったのだ(笑)。


 僕は以前、心理学を専門の先生から習ったことがあって、そのとき、テキストにこの眼鏡屋の商売のやり方が紹介してあった。だが、その心理学的手法の名前を忘れてしまった。


 それで、今日そのことを思い出して、ネットで調べてみたのだ。


 すると、ありました。こういう商売の仕方を『フット イン ザ ドア( foot in the door )』(以下、『フットインザドア』)というのだ。


 『フットインザドア』という名前は、一般家庭に訪問販売(つまり、押し売りですね)にきたセールスマンが、家の奥さんに話を聞いてもらうために、奥さんが扉を閉めることができないように、靴先をドアの中に突っ込む行為に由来している。


 それで、『フットインザドア』とは、最初に相手に小さな要求を呑ませ、段々とその要求を大きくしていくことで、目的とする要求を承諾させる心理テクニックなのだ。


 たしかに、あのときは、僕は『1万円』という広告に引き寄せられて、眼鏡屋に行って、そこから、親父が、段階的に僕に高い品を見せて、僕に次々と高い商品を買わせるようにしたのだ。まさに、『フットインザドア』という心理テクニックそのものなのだ。


 そして、今、ここで文章で一連の流れを書くと、親父の『フットインザドア』の具体的なテクニック、というより手口が明確に見えてくる。


 それはこういうものだ。・・・購入手続きが済むと、お金を払う寸前に、親父は必ず新たな品を出してきて、僕に見せるのだ。そして、さっき自分が推奨した製品の欠点を言って、新しい製品がそれを補うと説明し、新しい製品はもう数千円出せば手に入ると言うのだ。


 つまり、お金を払う段になると、親父は必ず決まって、新しい商品を出してきて、こう言っていたわけだ。


 「前の品はこういう欠点がありまして、この品はその欠点を補うことができます。あと数千円出せば、これを購入できます」


 親父は、これを繰り返して、だんだんと購入額を上げていったのだ。


 しかし、『1万円』以上の品を買うときに、この『あと数千円』というのが、実に、人の心理を突いているのですね。つまり、もう1万円以上を出しているのだから、どうしても『ここで、あと数千円を出さないと損をする』という心理にさせられるわけだ。


 あのとき、僕には、その『ここで、あと数千円を出さないと損をする』という心理が強く働いて、親父が仕掛けた『フットインザドア』のテクニック、というか手口、もっというと罠を見抜くことができなかったのだ。


 まんまと、してやられてしまった・・・


 古ぼけた商店街の中にある、パッとしない眼鏡屋だと思っていたが・・・どうして、どうして、最新の心理学を駆使する、実に抜け目のない、眼鏡屋だったわけだ。眼鏡屋というのは、もちろん皮肉ですよ、分かりますね。


 しかし、『フットインザドア』を駆使して、こんな抜け目のない商売をされたら、お客はたまりませんよね・・・


 その眼鏡屋は今でもあるのだが・・・当たり前だが、僕はそれ以来、二度とその眼鏡屋には行っていない。

 

 余談だが、心理学のテキストに『フットインザドア』と並んで出てくる心理学的テクニックに『ドア イン ザ フェイス( door in the face )』(以下、『ドアインザフェイス』)がある。


 『ドアインザフェイス』は、ドアを目の前でぴしゃりと閉める「門前払い( shut the door in the face )」に由来した言葉で、最初に大きな要求を相手に断らせたうえで、譲歩案として本来の要求を提示し、相手に承諾させる心理テクニックだ。


 『ドアインザフェイス』は譲歩的要請法とも呼ばれていて、「相手が何かしてくれたのだら、こちらも返さなくてはならない」と感じる返報性の原理を使ったテクニックなのだ。


 例えば、100万円で契約を取りたい場合、あえて最初に150万円の見積書を提示して、一旦相手に「高すぎる」と断らせるのだ。その後に「内容を見直し、値引きをした結果」として100万円の見積書を提示するのだ。そうすると、相手は「値引きしてくれたのだから、今度は契約しないといけない」と感じるため、契約しやすくなるというものだ。


 日常生活でもよく遭遇する。スーパーなんかの店頭価格の表示で、定価の350円だけを表示するより、400円と書いて、それ二重線で見え消しして、その下に「大特売 350円」と書いた方がよく売れるという、あの手法だ。


 『ドアインザフェイス』も『フットインザドア』と一緒に覚えておくといいよ。


 『フットインザドア』と『ドアインザフェイス』を皆様にお伝えできたことが、今日のよかったこと。。。


 しかし、僕は机の中の使わない眼鏡を見ながら、しみじみ思うのだ。


 『フットインザドア』って、怖いなあって。。。


 皆様も『フットインザドア』にお気をつけください。ホントに怖いよ・・・


 



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