94 12月28日(水) しゃべる男

 学生のときだ。


 休日の午前中に、僕に電話が掛かってきた。


 いい英会話の教材があるので、ぜひ紹介したいという内容だった。電話の向こうで、男性が「本当にすばらしい教材なので、午後から、あなたの最寄り駅の近くにある喫茶店で落ち合って、詳しく説明をしたいんです」と言ってきた。


 僕は「ああ、この手の勧誘には乗らない方がいいな」と思った。


 しかし、その日の午後はたまたまバイトがなく、幸か不幸か暇だった。喫茶店なら、向こうがコーヒー代を出してくれるだろうとも思った。それに、僕はこういった勧誘話には絶対に乗らない自信があった。


 だから、「経験として、一度だけ、こういった勧誘の話をゆっくりと聞いてみるのも面白いかもしれないな。話を聞くだけで、最終的に断れば、何も実害はないのだから・・いい暇つぶしになるかもしれない」と安易に考えたのだ。


 それで、僕は午後になって、男性が指定した、駅前の商店街の中にある喫茶店に行ったのだ・・


 男性が一人で僕を待っていた。


 僕より年上だが、まだ十分に若い男性だった。小柄で、ちょっぴり太っていて、きちんとスーツを着ていた。


 男性は挨拶をすると、さっそく、喫茶店のテーブルにパンフレットを広げて、英会話教材の説明を始めた。


 僕は、『経験として勧誘の話を聞くこと』だけが目的だったので、男性の話を黙って聞いていた。


 そのまま、5分、10分と時間が経過していった・・・


 男性は、この教材がいかに優れているかといったことをずっと話し続けている。


 僕は少し疑問を持った。男性は、僕に質問したり、話しかけるといったことを一切しないのだ。さっきから、男性が一方的に話している・・・


 そのうち、僕は、男性の話すスピードが、さっきより少し速くなったのに気がついた。


 すると、それから、男性の話すスピードがどんどん速くなっていって・・やがて、早口言葉のような速度になった。


 こうなると、何を言っているのか、よく聞き取れないのだ。僕は男性の言葉に神経を集中させた。


 それでも、男性の言葉はますます速くなっていく・・


 そのうち、なんだか、録音した音声を何倍速もの早送りで聞いているような状態になった。あまりの速さに・・聞いている僕の頭がぼんやりしてきた。


 男性はそれでも話を止めない。ものすごい早口で・・・しゃべり続けるのだ。


 話のスピードはさらに速くなっていった・・・あまりに話の速度が速くて、もう何を言ってるのか、まったく聞き取れない。


 まるで、早口言葉の洪水の中にいるようだ。僕の頭がパニックを起こした。頭の中に白いもやが掛かったような状態になった。それでも、男性の声は、さらに速くなるのだ。


 男性の声が・・速くなる・・速くなる・・速くなる・・


 もう、何も考えられなくなった・・何も見えなくなった・・意識が真っ白なもやに完全に包まれた・・頭の中は真っ白だ・・


 突然、男性の声が頭の中に響いた。聞こえたのではない。意識を包みこんだ白いもやの中に、男性の声が響いたのだ。


 「ここにサインをしてください」


 眼の前にボールペンが差し出されるのが見えた。朦朧もうろうとしていた僕は、思わず、そのボールペンを握りしめた。


 男性がテーブルの上に紙を置いて、指で空欄を指し示している。


 あそこにサインをするのか・・・


 僕の頭の中は真っ白なもやが掛かった状態だ。まるで、その真っ白なもやの中にドロドロの沼があって、身体が少しずつ沼の中に引きずり込まれていくような感覚があった。僕が逆らって、沼から出ようとすると・・・沼がものすごい力で、僕の身体を沼の中へ引き込むのだ・・僕の身体が沼の中に沈んでいく・・


 僕は言われるままに、男性が指差す空欄にボールペンを近づけた。・・ボールペンの先が紙に当たった。・・サインを書こうとした。


 そのとき、ふと、思った。


 あれっ、僕は何をやっているんだろう・・


 僕の心に何かが引っ掛かった。僕の心の中の、ほんの片隅で、何かが僕にかすかな警鐘を鳴らした。その警鐘は、普通ならばきっと気づくこともない、あるかないか分からないような、本当にかすかなものだった。


 僕の手が一瞬止まった。ボールペンの先が、少しだけ紙から浮き上がった。


 すると、真っ白なもやの中の沼から・・意識が届いた。声ではなく、無言の意識だ。意識がメッセージを僕に伝えた。


 沼の中には甘美な世界がある。沼の力に導かれるままに、沼の中に沈んで・・サインをするのだ。沼の力に逆らって、サインを拒絶することには、心に大きな負担を伴なうのだ。沼の中に入って、サインをしてしまえば・・そんな心の負担は何も感じない、甘美な世界に浸れるのだ。さあ、沼に導かれて、甘美な世界に進むのだ・・・


 僕は、沼の中に完全に沈むことが、サインをすることだと分かった。


 甘美な世界・・その言葉が僕の心に響いた。実に魅力的だった。僕の心が『甘美な世界』に酔った。


 僕は言葉に導かれるままに、サインをしようと、ボールペンを再び紙に押し当てた。


 僕の身体が沼の中に沈んでいく・・


 僕の心に、もう一度、何かが引っ掛かった。


 何かがおかしい。・・・考えろ。理性で考えろ。


 僕は真っ白なもやの中のドロドロの沼から・・少しずつ、身体を持ち上げた。沼がものすごい力で、僕を沼の中に引き戻そうとした・・それでも、僕はその力に逆らって、少しずつ身体を沼から持ち上げていった・・・ものすごい心の苦痛と疲労を感じた。それでも、僕は沼の力に逆らった。僕は沼から身体を持ち上げるのを止めなかった・・やがて、僕の身体が沼から出た。


 そのとき、やっと理性が少しだけ働いた。白いもやの中の沼が、ほんの少しだけ薄くなった。


 僕はかろうじて、声を出すことができた。ゆっくりと一語一語を区切りながら、口を開いた。頭がまだ朦朧もうろうとしていて、とても普通に話すことなどできなかったのだ。


 僕は男性に言った。僕の頭の中で、僕自身の声が聞こえた。なんだか、他人が、はるか遠くで話す声を聞いているようだった。口がしびれているような感覚があった。


 「こ、こ、に、、サ、イ、ン、を、す、る、と・・・ど、う、な、る、ん、で、す、か?」


 男性が一瞬、言葉に詰まったのが分かった。男性の口から声が出てこない。男性がうめいた。男性の声が聞こえた。


 「ええっと・・」


 何だか言いにくそうだ。僕は重ねて聞いた。一度声を出したので、今度は比較的スムーズに声が出た。頭の中の白いもやと沼が急速に薄くなって行くのが分かった。


 「ここにサインをすると・・ひょっとしたら・・英会話の教材を買ったことになるんですか?」


 男性が苦しそうに声を絞り出した。


 「え、ええ。まあ・・そうですね」


 男性のその声で、僕の頭は一気に通常の状態に戻った。白いもやと沼は完全に消えていた。


 僕はフーと大きく息を吸い込んだ。大きく頭を振った。もう大丈夫だ・・


 そして、断言するように男性に言った。


 「買いません。だから、サインはしません」


 男性があわてて聞いてきた。


 「どうしてですか? 誰もがみんな、簡単に英会話を習得できる方法を探しているんですよ。この教材なら、それにピッタリじゃないですか。一日15分聞くだけで、簡単に英会語が習得できるんですよ。どんなに忙しい人でも、一日たった15分の時間が捻出できないことなんて、あり得ないでしょう。なのに、どうして、あなたは、一日の中のたった15分が捻出できないんですか?」


 「僕が一日15分の時間を捻出できようが、できまいが・・そんなことは、僕の勝手で、あなたには何の関係もないことでしょう」


 それでも何か言おうとする男性に、僕は追い打ちのように宣言した。


 「誰が何を言おうが・・買わないと言ったら、何があっても絶対に買いません」


 そして、僕は腕を組んで、男性をにらみつけたのだ。


 男性はさらに食い下がったが、僕は、ひたすら、「買わないと言ったら、何があっても絶対に買いません」とだけを繰り返した・・・


 やがて、男性がため息まじりに言った。


 「分かりました。・・・長らく、この仕事をやっていますが・・こんな風に『何があっても絶対に買わない』と言われたのは、初めてですわ」


 潮時と見て、僕は喫茶店のテーブル席から立ち上がった。


 「では、これで」


 そう言うと、僕は喫茶店を出た。出るときに、レジで僕の分のコーヒー代を払っておいた。後腐れを断っておきたかったのだ。


 若気の至りでいい経験をさせてもらった・・・


 しかし、あまりの早口で、頭がぼやっとしてしまうなんて、初めての体験だった。


 こんな勧誘の仕方があるんだなあ・・と不思議に思った。


 そして、先日、このことを思い出して、「あれはひょっとしたら、心理学か何かの手法だったのかもしれない」と思いついたのだ。


 そこで、ネットで調べてみた。


 すると、こんな話を見つけた。


 催眠術師が催眠術を掛けるときに、早口を使う手法があるそうだ。


 どういうことかと言うと・・

 

 早口で話すと、どうしても、相手は内容を理解しようとして・・・話に全神経をとがらせることになる。そうして、話を聴くことに集中するあまり、トランス状態になってしまうのだそうだ。トランス状態というは、外部からの言葉の影響を極めて受けやすい状態のことらしい。


 催眠術では、相手がこのトランス状態になるかどうかが勝負の分かれ目らしくて、トランス状態に入ってしまえば、相手は催眠術師の言うことを、実に容易に受け入れることになるのだそうだ。


 ネットには、相手がトランス状態になっているときに、例えば、催眠術師が「あなたは犬になる」と言うと、相手は本当に四つん這いになって、ワンワンと吠えると書かれている。これは意識して、つまり催眠術師に合わせて犬の仕草をしているのではなくて、催眠術師の「犬になる」という言葉を、頭が何の抵抗もなく受け入れて、無意識に犬の行動をとってしまうらしいのだ。


 そうだったのか! 眼からウロコとはこのことだ。


 あのとき、僕は男性に催眠術を掛けられていたのか・・・


 あのとき、僕は男性のあまりの早口に、トランス状態に陥って・・・男性の「ここにサインをしてください」という言葉を何の抵抗もなく受け入れて・・・サインをしようとしていたのだ。


 そして、僕がふと「僕は何をやっているんだろう」と思わなければ・・・あの真っ白なもやの中のドロドロの沼に全身を引きずり込まれて・・・言われるままにサインをして・・・僕は高価な英会話教材を買わされていたのだ。


 これで謎が解けた。


 おそらく、僕は『男性の声が、録音した音声を何倍速もの早送りで聞いているような状態になった』といった当たりから、催眠術で男性に完全に操られていたのだ。


 しかし、催眠術で教材を買わせるとは何とも恐れ入った。あの男性がどのようにして、催眠術を習得したのか知る由もないが、実は催眠術の達人だったというわけだ。


 それにしても、テレビで、催眠術師が「あなたは鳥になる」と言うと、施術された人が両手を翼のように広げて、大空を飛び回る格好をしているのを見たことがあったが・・


 僕はあんなのは、ヤラセだと思っていた。だが、実際に自分が催眠術を掛けられたのを思い起こすと・・・僕は催眠術でサインをする寸前まで操られてしまったのは間違いないのだ。


 催眠術というのは、本当に存在するのだ。そして、ものすごく効果があるのだ。


 あぶないところだった・・・


 僕の背中を冷たいものが走った。


 嘘のような話だが、ここに書いたことはすべて本当なのだ。つまり、すべて事実というわけだ。


 この事実を皆様にお伝えできるのが、今日のよかったこと。。。


 しかし、催眠術で勧誘だなんて怖い話だねえ。


 皆様もくれぐれもご注意ください。


 あなたと話している相手が早口になったら・・・あなたに催眠術を掛けているのかもしれません。。。


 「あなたは、だんだん眠くなる・・」というのは、もう古いみたいですよ・・・

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