75 10月14日(金) 安心できた想い出

 唐突ですが・・皆様はどのような場所や状況にいると最も安心できますか?


 僕の好きな作家に椎名誠さんがいる。椎名さんはよく仲間たちと海山川にキャンプに出掛けており、そのアウトドアでの顛末を面白おかしくエッセイに書いているのだ。先日、椎名さんのエッセイを読んでいると、こんなことが書いてあった。


 『オレはキャンプでテントの中に入って休んでいるときに心が一番休まる。特に、テントの外では大嵐で暴風雨が吹き荒れているが、自分はテントの中にいるので嵐の影響を受けず安全で、当面の食料や水はテントの中に置いてある・・といった状況だと、オレの心が一番休まるのだ』


 僕は彼の意見にすごく賛同できるのだ。といって、僕がアウトドアの趣味を持っていて、よくキャンプに行っているというわけではない。


 僕の場合は、外が大嵐であるが、自分は暴風雨の当たらない家の中にいて、家の中には当面の食料や水が備蓄してあるといった状況になると一番心が休まるようなのだ。


 実際、こういう場面に遭遇したことがある。


 当時、僕は仕事である地方都市に単身赴任していた。


 秋の金曜日の午前中のことだ。その地方都市をかなり大きな台風が直撃したのだ。僕はそのとき、職場の近くに単身者用というか一人住まい用のアパートを借りていて、アパートから自転車で職場に通勤していた。職場まで自転車で約20分といったところだった。一方、その都市には電車は通っていたのだが、通勤に不便なので、職場の他の人たちは、みんな車で通勤していた。


 さて、台風が直撃した日のことだ。台風で各所で道路が水没し、車が通れなくなるというニュースが流れたので、職場では早々に仕事を切り上げて帰宅してくださいということになった。それで、みんなは朝の10時になる前には早々と仕事を切り上げて、車で帰っていったのだ。つまり、出社して・・すぐに帰宅したわけだ。


 僕はそのとき大事な急ぎの仕事を抱えていたので、事務所を出るのが一番最後になった。やっと仕事を仕上げ、事務所に施錠して外に出たときは、もうその日の正午過ぎになっていたのだ。


 外はものすごい暴風雨になっていた。傘などはとてもさしていられない状況だ。もっと早く事務所を出るべきだったと後悔したが、もう遅かった。しかし、事務所に留まっても食料もないのだ。こんな暴風雨の中をアパートまで帰るのは正気の沙汰じゃないと思ったが、もうどうしようもなかった。タクシーを呼んでも、この暴風雨ではとても事務所まで来ることは不可能だろう。


 危険だとは思ったが・・僕は無謀にも暴風雨の中を自転車に乗って飛び出したのだ。


 とても傘をさせる状況ではなく、また雨合羽あまがっぱなんかは持っていなかったので、僕は服のまま自転車に乗って台風の中を進んだ。強い雨に当たって、たちまち全身がびしょ濡れになってしまったが、構わず自転車を漕いだ。


 ニュースで言っていたように、道路には雨水が溜まって川のようになって流れていた。とても車が通行できる状況ではなかった。そんな状態なので、道路には車は一台も走っていない。もちろん、歩道を歩いている人など誰もいなかった。周囲は暴風雨のせいで、何だか白いカーテンが掛かったようになっていた。周囲の景色が白く霞んで見えた。白い景色をぐるりと見渡すと、動いている人も、動いている車も全く見えなかった。そんな誰もいない白い景色の中を、僕はびしょ濡れになって、ひたすら自転車を漕いで進んだのだ。


 しかし、吹き付ける雨粒が顔に当たって、痛いのなんの。あまりの痛さに眼を開けていられないのだ。僕は半分眼をつむって進んだ。風が強くて、僕は身体を前に曲げて風の圧力を避けた。風で何度も自転車が浮き上がりそうになった。僕の身体が自転車ごと宙空に飛ばされそうになったわけだ。何かの看板が風に飛ばされて、こちらに向かってきた。僕は思わず首をすくめた。僕の身体の横を看板がかすめた。次の瞬間、僕の横をその看板が回転しながら後方にすっ飛んで行った。


 服がたっぷりと水を吸って重たかった。靴の中にはプールのような水たまりが出来ていて、自転車を漕ぐごとに靴がガボッ、ガボッと音を立てた。下着を通して身体の表面を雨滴が雨のように流れている。もう全身がびしょ濡れだ。


 何度も死ぬ思いをした・・


 こうして、普段だと自転車で20分ぐらいのところを、その日は50分ほど掛けてやっとアパートの近くまで帰ったのだ。


 さて、僕のアパートの近くにたこ焼き屋さんがあって、店のおばさんの自宅の前に屋台のような店を出していた。そこは普通のたこ焼きではなく、直径が10cmぐらいあるジャンボたこ焼きを売っていた。ジャンボたこ焼きの中には、タコの他に牛肉やエビや野菜などがたっぷりと入っていて、ジャンボたこ焼きを2ケも食べるとお腹が一杯になるのだ。


 その日、僕がその屋台の前を通りかかると、店のおばさんが店仕舞いをしていた。なんと、そのおばさんはこの台風の暴風雨の中で、その時間まで店を開けていたらしいのだ。もちろん、こんな台風の時にたこ焼きを買いにくる人間は誰もいなかっただろう。


 このとき、僕はよっぽど人恋しかったようだ。おばさんを見ると、何故か無性にそこのジャンボたこ焼きが食べたくなった。僕は店の前に自転車を乗り付けた。自転車にまたがったまま、店のおばさんに「ジャンボたこ焼きは買えますか?」と声を掛けたのだ。自転車にまたがっていないと、風で自転車がどこかに吹き飛ばされてしまう恐れがあったのだ。


 おばさんにとっては、店仕舞いをしているときにやってきたお客は迷惑だったろう。普通なら断られるところだ。しかし、おばさんはイヤな顔もせずに、僕にジャンボたこ焼きを2つ売ってくれたのだ。僕はそのジャンボたこ焼きが濡れないように、おばさんに何重にもビニールの袋に包んでもらった。そして、僕にジャンボたこ焼きを売ると、おばさんは急いで店を仕舞って、店の奥にある自宅に引っ込んでしまった。


 そして、僕はそのジャンボたこ焼きを持って、うのていでアパートになんとか無事にたどり着いたのだ。


 部屋に入ると、僕はすぐにびしょ濡れの服を脱いで洗濯機に放り込んだ。そして、熱いシャワーを浴びた。シャワーから出て窓から外を見ると、アパートの前の街路樹が風で大きく曲がって、今にも折れそうになっているのが見えた。風のビュービューという音が部屋の中まで大きく響いていた。雨滴がものすごい勢いで、窓ガラスにぶつかってきた。その勢いで窓ガラスが震えた。


 僕は新しい服を着ると、台所を点検して食料や飲み物を調べた。冷凍食品やレトルトのカレー、インスタントラーメンやスナック菓子、それに水やお茶やお酒などが充分にあるのを確認できた。僕は冷蔵庫から冷えた缶ビールを出してきて、さっき買ったジャンボたこ焼きと一緒に食卓に並べたのだ。


 僕は缶ビールを一口飲んだ。そして、自分の状況を改めて思い浮かべてみたのだ。外は台風の暴風雨が吹き荒れているが、僕はその中をなんとか無事にアパートにたどり着いて、今はこうして暴風雨の影響がない安全な部屋の中にいる。当面の食料や水は充分にある。お酒も充分だ。眼の前には冷えた缶ビールと、さっき買ったジャンボたこ焼きが並んでいる。それに明日は土曜日で休日だ。台風がいくら荒れ狂っても、明日は会社に行く必要はない・・今から明日にかけて、家の中でゆっくり休んでいればいいのだ。


 そうして、このとき、僕はものすごい安心感、安堵感に包まれたのだ。


 ********


 さて、病院にいると、僕は病室から出ることを禁止されているので、外の様子は窓から眺めるしかない。先日、大きな台風が日本を襲ったが、そのとき、僕は病室で窓の外の台風を眺めながら、このときのことを思い出していた。


 いまでは・・あのときは無茶をしたなあ・・よく無事だったなあ・・と思うのだ。あの台風のとき、僕は食料が無くても、安全な事務所に留まるべきだった。台風は1日経てば、その地方都市を通過する。食料が無くても、1日ぐらいは事務所に留まることができたはずなのだ。それに事務所のトイレには手洗いの水道がきているわけだから、いざとなれば水道の水で、のどの渇きを押さえることができるわけだ。


 そう思ったが・・・しかし、僕がアパートで感じたあの安堵感は生涯忘れることができないものだった。


 苦い思い出であり、その一方で心から安心できた思い出だった。


 どうでしょうか? 皆様にもこういった『安心できた想い出』があるのではないでしょうか?

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