恐怖と通訳

 正直に言って、楊の思惑云々は建前で本音としては、自分の心の中にある恐怖を紛らわす為でしかなかった。

 ISSに入って一年近く。

 幾度となく修羅場を体験してきたし、死にかけた事も一度や二度じゃない。

 敵に捕らわれた事も二回ある。

 一度は入ったばかりの頃、カリスト・マイオルを追ってポカをやらかした時。

 二度目は、日本でのゴタゴタで弓立涼子に監禁された時。

 そしてその二回とも、俺だけではなくマリアも傷つけられている。

 彼女は一度目の時に右肩に銃弾を受け、二度目の時はナイフで切り付けられたり殴られたりした。

 自分が傷つくのはいいが、彼女が傷つく様を見るのは自身を傷つけられる以上にこたえる。

 けど、これまでの二回はまだよかった。

 自力で彼女を助けたり、逆に彼女に助けられたり、危機を乗り越えられる状況にあったからだ。

 けれど、三週間前。

 薬物で麻痺した身体は指先すらピクリとも動かせず、ただ眼球が目の前の出来事を脳へ伝えるしか機能が生きていなかった。

 そんな中、マリアは機転を利かせて殺し屋に勝利したが、また傷を負ってしまう。


「もしかしたら死んでたかもしれないのに、これだけで済んでラッキーだったよ」


 そんな事を言って、病院のベッドの上で彼女は笑った。

 けれど、俺は笑えなかった。

 なすすべもなく、眼の前で人が、それも大事な人が殺されるのは自分が死ぬより辛い事だ。

 去年の春。新宿駅でテロ未遂事件に巻き込まれたのに始まり、ISSで働くようになってから人の死に敏感になった気がする。

 そして、死に対して人一倍臆病になった気がする。

 殺さざるおえない状況で殺し、その場で何も感じなくとも、夜ふとしたタイミング、思考に一瞬の空白が生まれるとフラッシュバックするのだ。

 そして、怖くなる。いつか強烈なしっぺ返しを喰らうのではないかと。

 それで喪うのは、マリアではないかと思ってしまうのだ。

 心の何処かで恐れ、その度にそんな事ないと自分を誤魔化していた。でも、そんな言葉で誤魔化されない出来事が起こってしまった。

 目の前で散る鮮血。

 生きているのに、死んでいるかのように動かない身体。

 凍りつくかと錯覚するくらいの激しい殺気。

 それらは全て誤魔化しようの無いリアルだった。

 数々の戦いの中で「死」というものに一番近づいた。

 ……もしかしたら、俺は既に死んでいて、今眼に映っているのは息絶える一瞬で見る長い長い夢の一部なのかもしれない。

 そんなふうに考える事もある。

 俺はあの日から、強烈な死への恐怖に憑りつかれ、それを祓えずにいるのだ。

 戦いの場において、死なない方法は一つ。

 殺される前に相手を殺す。それだけだ。

 相手を先に殺すには、相手の情報を知ることが重要になってくる。

 死なない為にリスクを背負うのは、本末転倒かもしれない。

 けれど、目の前で彼女に死なれるよりよっぽどいい。



 楊は自身がひっくり返した椅子とずらしてしまった机を元の位置に戻し、尻肉の悲鳴に耐えながら、また目の前の扉が開くのを待っていた。

 警察の留置場に入れられた時に、所持品は全て没収された。その中には腕時計もあり、彼は今、時刻や時間への観念が希薄になっている。


(今、赤沼達が出て行って何分経った?)


 赤沼達が退室して十五分ほど経っていたが、楊には丸一日経っている様に感じていた。


(とにかく、早く外に出よう。携帯も新聞も見てないし、情報が無い。……あの殺し屋の事は、載っているのか? 載ってなければいいけど、殺した相手が相手だ。書かれていても不思議じゃない)


 焦りが彼の心を支配していた。一分が一時間に感じ、五分が一日に感じるほど、酷く焦っていた。

 けれど、早く早くと結果を求めても一秒の速さは変わらない。

 楊がそんな久遠的な苦しみに心を焦がしていると、唐突に扉が開かれた。


「おう」


 先頭が赤沼。その次にマリア。殿に曹が付いている。

 赤沼の態度は先程とあまり変わっていなかったが、マリアは先程の落ち着いた態度とは違い、明らかな敵意を楊へ向けていた。

 そんな変化に戸惑いつつ、彼は待ちわびた結果を赤沼に聞く。


「それで、赤沼さん。私を連れて行ってくれるんですか?」

「ああ。連れていく事にしたよ」


 赤沼は何気ないように言ったが、楊はそれを聞いた瞬間飛び上がりそうになった。

 マリアの敵意がそのタイミングで急激に膨れ上がったのも、気が付かないくらいに。


(これでまた、アイツに会えるかもしれない)


 首筋の痣と、初めて目にした時から網膜に焼き付けられた黄龍の入れ墨を思い浮かべながら、楊はこみ上がる高揚感を抑え込んだ。


「ありがとうございます」


 だが、あくまでも冷静さを保つ。ここで舞い上がって、この話をなかったことにされるのを何より避けたかったからだ。


「だが、捜査官としてではない。お手伝いだ。お前は、俺とマリアの通訳として捜査に付いて行くんだ。そこのとこ、勘違いするなよ」

「構いません。無理を言っている自覚はあります」

「……だったら、言わなければよかったのに」


 マリアがそんな事をボソッと吐き捨てる。赤沼はそれを肘で小突いて窘めたが、無理もないと楊は思っていた。

 彼女からしたら、自分はただの犯罪者であり、本来だったらこんなワガママを本気で検討する必要すらない身分なのだ。

 赤沼が一体どんな風にマリアを説得させたのか、楊には分からなかったが、少なくとも納得していない事は察せられた。

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