Time is life7

 結論から言うとルナは全く役に立たなかった。俺的には難しい専門用語をかなり優しく言い換えたつもりなのだがエクスプローラが何かを知らない彼女には何一つ指示は伝わらなかった。生きてる世界が違うのだろう、仕方がない。

「あー・・・俺がそっちもやっとくよ」

という俺からの戦力外通告を受け取った彼女は

「あっえっとごめんなさい。ありがとう」

といって俺の手元とディスプレイを動作を一つ一つ記憶するかのように眺めていた。何だか背筋が伸びる。

「パソコン打つの早いね。練習したの?」

「中学ん時の親友がパソコン好きだったから、そいつに影響されたんだよ。家に帰ったら毎日パソコンでくだらないホームページとか作ってた」

「へぇ~!すごいね」

そんなすごいもんじゃないさ。俺たちがやってたのはほんとにくだらない、今考えれば燃やしてゴミ箱に投げ捨てたいほど恥ずかしい物なんだからな。いわゆる黒歴史って奴だ。


 そんなくだらない雑談をしていると後ろの棚の中身をガサガサやっている葵が

「そういえばルナはさっき何買ってきたの?」

と声をかけてきた。そんなに棚を荒らすのはやめてくれよ。つい昨日片付けたばかりなんだから。

「あっ、そうだ。これ買ってきたんだ。ほら……これ!」

そう言って鞄から取り出したのは衣料品用洗剤と柔軟剤だった。

「洗剤?」

「何に使うんだそれ」

葵と俺がそう言うとルナは後ろの棚の上に置かれていたテディベアを取ってきて

「この子を洗濯しようと思って」

とニコニコ顔で言った。よっぽどこの薄汚れた熊が気に入ったらしい。それから俺の隣の椅子から立ち上がって「バケツバケツ…」とつぶやきながらルナは部屋から出て行った。助かるぜ。正直人に手元を見られながら作業するのはなんだか緊張するからな。


「夕立のおかげでずいぶん涼しくなったわね」

そう言って葵は ベランダの外を眺めていた。

俺的にはこの気温がずっと続いてくれたらうれしいんだけどな。

「同感。今みたいな環境が一番過ごしやすいわ」

 もちろんこの気温が永遠に続くわけじゃない。件のマラソン大会の頃は2週間後だから上着を羽織らないといけなくなるだろう。その頃には教室のエアコンの効きが悪いことに腹を立てることはなくなりそうだが。


 それから下校まで特筆すべきことは何も起こらなかった。ルナはバケツでテディベアのぬいぐるみをジャバジャバ洗って、十分絞ったあと耳に洗濯バサミを括り付け窓枠から吊るした。まるで晒し上げの罪にあっているようであった。かなり中の綿も劣化しているようでより一層しわくちゃに見えたが今度綿を入れ替えるのだそうだ。パソコン部の次は手芸部か。生徒会の仕事ってこんなものなのだろうか。一方葵は棚の段ボールにまとめてあった昔の生徒会の活動履歴を読んでいちいち感想の声を上げていた。

「20年くらい前は生徒会で合宿に行ってたみたいね。面白そうだわ」

どこに行ってたんだ。

「記録ではみんなでスキーに行ったり瀬戸内海にある島に行ってたらしいわ」

もしかしてだがその旅費は生徒会予算なんじゃないか。20年前と言うと隣の秋夜高校もできてなかった頃だからこの近辺だとうちの高校が一番偏差値高かっただろうし、潤沢な予算を娯楽のために無駄遣いしても文句は言われなかったに違いない。今じゃ予算的にも時代的にも出来ない代物だろうよ。

「でもみんなでどこかに出掛けるのはいいわねぇ。スキー合宿が一番面白そうだわ。ルナちゃん、あなたスキーできる?」

「やったことないからわかんない。でもバランス感覚はいいよ」

「じゃあ簡単にマスターできるわ。陸坊は?」

父親が東北出身だから小さい頃から滑らされてたさ。もっともここ数年スキー場どころか雪国にも行っていないが。

「あら、そうなの。じゃあ生徒会メンバーみんなで陸坊の地元に押しかけるっていうのもいいわねぇ」

 それからこの上級生は特に作業を手伝うわけではなく、ルナと共に架空の旅行プランについて話し合っていた。俺は2人の会話に時々適当な相づちを打ちながら作業を続け、2つのパソコンのデータを整理し終わった頃には2人の妄想はイギリスまでシベリア鉄道で行くことになっていた。

「よし、終わった」

そう言ってのびをする。それを見てルナが口を開く。

「お疲れ様、ごめんね任せちゃって」

いや、こんぐらいなら別に大丈夫だけど。

「結構時間かかったわねぇ。どんな感じ?」

パソコンの画面を覗きつつ葵が聞いてくる。仕事を押しつけておいていたわることも知らないのかこの上級生は。

「この中に入ってた物理同好会とやらのデータはすべて別のユーザーを作ってまとめておいた。後はいらないソフトを消去したりスタートアップ減らしたりデフラグかけたりして普通に使えるレベルには整理しておいた」

「ん~、よくわかんないけどこれでルナも使えるようになったってこと?」

「そういうこと」

「私、あかうんと?とかよくわからないんだけど、そこら辺も大丈夫…?」

「多分。小学生でもすぐに使い始められるようにはしておいた」

「完璧ね。もうちょっと作業やってもらおうかと思ったけど、今日はこれで帰りましょ。ん~疲れたわぁ~。早く家に帰って寝たいわね」

そう言うと葵はスクッと立ち上がった。所々さび付いた古いパイプ椅子がギシギシと音を立てる。俺もパソコンをシャットダウンさせ、机の上に適当にまとめる。ルナはというと窓際に干してあった制服を回収していた。部屋干しだったが乾いているのだろうか。そして隣に吊されていたテディベアを触り「まだちょっと湿ってるなぁ」とつぶやき、そのままこちらの方へ戻ってきた。どうやら2連休中もずっと吊され続けるらしい。哀れなテディベア君に幸あれ。


「着替えるから」

というルナの一言により俺はたちまち部屋にいる権利を剥奪され、廊下へと出る。別にジャージのままでもいいと思うのだが、俺と葵が制服姿なので合わせるらしい。俺は鞄が机の上に置きっぱなしなのでそのまま帰るわけにも行かず、廊下の反対側の壁により掛かっていた。「ほら、ちゃっちゃと着替えちゃいなさい」という葵の声と布がすれる音が1分ほど聞こえてからドアが開いた。相も変わらず優等生という言葉の擬人化のような制服の着方をしているルナが俺の鞄を持って出てきた。葵が鍵を閉めるのを待ってから俺たちは歩き出す。3階へと続く階段を半分降り、踊り場で体の向きを変えた瞬間、目の前にヒョロッとした男が現れた。

「あ、宇部先生。こんにちは」

目の前に立っていたのは長身で猫背気味の30代ぐらいの男だった。よれよれのスーツを着て、髪の毛はボサボサ、おまけに無精髭面だ。宇部と呼ばれたその男は何処か生気の失せた目でルナと葵をみて「あ、夕霧さんと月原さん…。こんにちは…」とボソボソとつぶやいた。それから次に俺に目を向け1秒くらい停止した。

「えーっと、どうも……。あの〜〜——」

「生徒会の顧問の、宇部です。3年の物理と、生物を…担当してます。よろしく……」

と小声で挨拶してきた。

「ああ、顧問の。生徒会の仕事を手伝ってる、っつーか手伝わされてる阿武隈です。…その、よろしくお願いします」

なんだかすごい歯切れの悪い会話になってしまった。宇部先生は少し首を下に下げると次に女子部員二人と会話を始めた。

「もう今日の、活動は終わったの、…かな?」

「はい、さっき終わりました。ちょうど帰るところです」

「…そう。じゃあ、鍵、もらうよ。職員室、いくから」

「すみません、じゃあコレお願いします」

鍵をもらったこの根暗そうな先生はそのまま階段をベタベタと足音を立てながら登っていった。


「あの先生、ああ見えてもすっごく頭いいんだって」

生徒玄関で靴を履き替え校舎の外に出るとルナが話しかけてきた。

ふーん。確かに物理と生物を担当しているとか言ってたし、畑違いにも思える分野の二つに造形があると言うことはそれだけ頭がいいんだろう。

「なんか大学院にいたときすごい論文を出して、なんとかホールディングスの社長さんに表彰されたらしいよ。校長先生が言ってた」

ほう、じゃあなんで教師になったんだろうか。

「宇部の話?あの人、頭はいいらしいけど教え方のセンスは皆無よ」

校門へ歩いていたら後ろから追いついてきた葵が言う。

「アオちゃん授業受けたことあるの?」

「去年の冬に生物の先生が2週間ぐらい病欠したことがあってね、その代わりに授業してくれたんだけど、ものすごーくつまらなかったわ」

あの雰囲気からして授業でも教室内に根暗な空気が漂うことは簡単に想像できる。

「もうね、催眠術よ。聴いてるだけで眠くなるの。しかも内容は教科書読み上げてるのと同じぐらい単調なのよ。教師としては0点ね。しかも目も伏せがちで何考えているかわからないし。多分悪い人じゃないんだろうけど、ザ研究者って感じだわ。学校じゃなくて大学の研究室の方がお似合いよ」

俺はこの学校の教師の大半はそんな奴らだと思うぞ。数学のおっさんは数式じゃなくて睡眠の呪文を唱えているのではないかと時折思うことがあるね。

「陸君のところの数学ってひげ生やしたおじさん?私のところもその人なんだけど、あの先生の授業ほんとに眠くなっちゃうよねぇ。気がついたら授業終わってたーなんてこともよくあって、テスト勉強がほんとに大変~」

「ルナはそう言ってちゃっかりいい点取るから罪深いのよ。勉強してないって台詞は悪い点を取る生徒にしか発言が認められないのよ。ねえ陸坊?」

俺に言われても困る。確かに大体の科目は平均点以下だが勉強してないアピールはしない。かっこ悪いからな。それに話す相手もいないし。

「それはある意味潔いわね。でも勉強しないと赤点取っちゃうわよ。国語のテストはかなり厳しいからね」

「えっ?ほんと?どうしよ、私漢文全然わかんないよう…」

「大丈夫よ、あのおばさんの出題することは毎回決まってるから。まずは文法ね。その次は——」


 と、こんな感じで3人でテストやら授業やらの会話を続けていたら、いつの間にか駅に到着していた。話しながら帰ると、このウォーキングコースも案外苦じゃないな。

葵は下り電車で一駅行ったところが最寄りらしいので改札内で別れた。長くて真っ黒な髪をたなびかせながら歩いて行く様はまるでモデルのようであった。あれで性格が乱雑じゃなければ美人なんだけどな。黙っていればと言うやつだ。

ルナと俺は上りホームにて昨日と同じように急行列車に乗り込んだ。

「今週は二連休だね」

ルナがなんともなしに言う。俺たちの通う高校は隔週で土曜も授業がある。午前だけだが、たった4時間のためにわざわざ往復40分のウォーキングをしないといけないもんだから生徒からは嫌われている制度だ。

「そうだな。先週は土曜授業あったから連休で休みがあるのは嬉しいな。久しぶりに家でぐーたらできる」

「土曜授業が隔週になったのって去年からで、おととしまでは毎週あったんだよ」

確かと付け加えつつルナは近くの手すりを握った。背が短いので吊革には届かないらしい。

「マジかよ、隔週でもきついのにコレが毎週かよ」

「その数年前は午前授業じゃなくて7限まであったんだって。でも生徒総会で短くなったって、昨日の掃除中に見つけた昔の記録に書いてあったよ」

「じゃあ今度土曜授業なくす提案ってできないのか?生徒総会で投票取ったら満場一致で可決すると思うぞ」

「できるわかんないけど、いいねぇそれ。あ、でも学校には来たいかも」

「学校に?なんでわざわざ」

「うーんとね、私土曜授業の日は図書室によく行くんだ。市の図書館もいいけど、学校の方が静かだから」

図書室ねぇ。そういえば管理棟3階にあるから第一生徒会室の隣の隣だったな。立地が悪いから確かにあまり人はこなさそうだ。俺も月に一回パソコンの月刊専門誌を読みに行くくらいしか使ってない。

「結構最新の小説とか入れてくれるし、いい場所だよ」

そう言うところには予算かけるんだな。まあいいことだが。


電車が見慣れたホームに入線して徐々にスピードを下げた。

「じゃあまた来週。放課後にね」

「おう」

小さく手を振る夕霧に右手を挙げて挨拶しながら俺はホームに降り立った。ほぼ太陽も沈んで、ちょうど夕方と夜の境目だった。七限に生徒会の仕事をしたにしては意外と早く帰ってこれたな、と思いながら俺は家路を急いだ。


 ルナとの会話にあった通り週末は二連休だった。流石に多忙な生徒会でも休日まで人を駆り出すような真似はしないようで、俺は学校の連中とは距離を置いて短い休みを満喫した。満喫と言っても特に出かけることなどもせず、家でゲームをしたりパソコンをしただけだが。唯一、駅前の病院まで骨折した腕の定期検査に行った。まだ完全には治りきっていないようで、コルセットは当分つけ続けないといけないらしい。毎日着替えるときに鬱陶しいのでいいかげん外したいが、ここは素直に医者の先生の言うことに従うしかないな。

 

 そしてあっという間に月曜日になった。48時間もあったはずなのに体感だと高校行ってる1日より短かったな。この次の週は今思うと比較的暇で、平凡な一週間だったように思う。俺は放課後に生徒会にかり出される以外は何一つ変わらぬつまらなくも何処にでもありふれているような高校生活を送っていた。

 特に6限終了まで何か特異なことは発生せず、あったとしたら国語の教師が漢文の抜き打ち小テストを授業冒頭でおこなったぐらいで、特に驚くべきこともなく放課後になった。残念ながら小テストの結果は散々だったが。

 放課後にはまた生徒玄関を素通りしてあの寂れた自称生徒会室へと向かう。木製のペンキが所々剥がれかけている建て付けの悪い引き戸を開けると同級生はもう奥の席に座っていて、なにやら小難しそうな顔をしながら文庫本のようなモノを読んでいた。ルナは俺が入ってきたのをみると本を鞄にしまった。俺が部屋に入ろうとすると

「あ、ドアは空けて置いて。暑いから換気してるんだ」

と言われたので引き戸に力をかけ全開まで開けた。こんなことしてもそこまで涼しくないと思うのだがルナも言うように今日も秋が仕事を放棄している真夏日だったので閉まっているよりかはマシかもしれない。

「もみあげの髪撥ねてるよ。寝癖?」

席に着いたら左耳あたりをしなやかな指でさされて聞かれた。これか?6限寝てたからその時に付いたヤツかな。適当に引っ張って直しておこう。

「6限何だったの?数学?」

世界史さ。今日も教科書の読み上げでつまらなかった。最も世界史に楽しさを感じたことなど人生で一度もないのだが。

「え~面白いよ世界史。特に近代史とか」

「カタカナばっかりなのが嫌なんだよ。覚えられん」

「でも覚えちゃえば英単語の勉強とかにもなるし便利だよ」

英単語ねぇ。例えば?

「うーんインディペンデンスデイとか」

ルナは立ち上がりながら言う。

確かに綴り分からねえな。その単語が英語のテストに出てくる確率はかなり低そうだが。それに綴りなんて世界史の教科書読むより俺は映画を繰り返し見た方が覚えられる気がするね。

「映画?なんの?」

「知らないのか?ほら、あの洋画の」

「洋画とか見ないからよく分からないなあ。時間があったら見てみようかな」

彼女はそれからテーブルに向かい

「これ、さっきアオちゃんが届けてくれたヤツだよ」

はい、と俺にプリントの束を渡してきた。何やら砂っぽいその紙束は見ると体力測定記録用紙と書いてあった。そういえば入学したての頃に体力測定をして、それを記録したのがこんな紙だったな。

「これをパソコンに入力して、早い順に並べるのが仕事なんだって」

早い順…?記録用紙には1年1組の男子の名前が縦に並び、その横に手書きで何やらアラビア数字がごちゃごちゃと書き込まれている。この時間から見るに持久走の記録だと思うがこれを手入力せよと言うことなんだろうか。

「全校生徒のデータがあるからそれを並べて、スタート順を作るって」

これ全員か?うちの全校生徒何人だと思ってるんだ。

「なんかアプリにぷろぐらむ?すればすぐに終わるんじゃないの?ってアオちゃん言ってた」

それはデータが入力されていた場合の並べ替えの話で、まずこのアナログデータをデジタルに直す作業が必要でだな…。おそらく一番簡単にできる手順はこうだ。まず1クラスづつ生徒の出席番号とタイムを入力して紐付ける。で、それらのファイルを統合して数字が小さい順に並べ替えればいい。だがその入力が途方もない量ありやがる。

まあしょうがねえ、だらだら文句垂れるよりさっさと実行した方がいいだろう。そう思って俺はパソコンの準備を始める。

「じゃあ私は女子の分やるね」

そう言ってルナはプリントの束から何枚か抜き取って俺の横に座って、パソコンの起動画面を眺めていた。

「じゃあまずはエクセルに名前と出席番号入力して、その横にタイムを打ち込んでいってくれ。形式はあとから揃えるからなんでもいいや」

俺は簡単に説明をしつつスタートメニューから慣れ親しんだ緑色のアイコンをクリックする。まずは1年1組の男20人の入力だな。どれくらい時間がかかるのだろうか。一クラスにかかる時間が約20分だとして、今は4時過ぎだから下校時間までに9クラス分は出来る計算になるのか。順当に行けば3日で27クラス分、つまり全校生徒分終わるわけだ。順調にいけばの話だが。

まず記念すべき1番目、1年1組1番の青柳君の1500m持久走タイム6分15秒を入力する。が、分表示だと並べた時エラーが出そうなので秒に直して375と入力し直した。これを全校生徒分やらないといけないのか。ずいぶん気が遠くなる話だ。そして全て時間を秒に直して入力するようルナに伝えようと俺は左を見て、パソコンの前で固まっている彼女の姿に気づいた。

フランス人形のような整った顔に困惑の表情を浮かべて、手をキーボードに軽く置いたまま首だけこっちを向いて彼女はこう言った。

「教えてくれないかな。えへへ…」


 どうやら彼女のパソコン音痴というのは筋金入りのようで、手順を教えるのにはかなり手間取った。

「まず、ここをダブルクリック…これこれ」

俺は椅子をズズーと横に移動して画面を覗きながら指さす。

「この緑のやつ?」

「そうそう。で、白紙のーって所をもう一回クリックすると俺と同じ画面開くから」

「あっ、ほんとだ」

「で、左上に次は出席番号を打って…。あ、1だけで大丈夫。そのマスの左下をクリックすると+マークが出てくるからそれを人数分下に伸ばしてくれ」

「えーっと、プラスマーク?うーんと」

「あー…俺の言い方が雑だった、すまん。何つったらいいんだろうな…」

彼女はマウスの動きすら不安定で、だんだんじれったくなってきたので彼女の手の上からマウスを掴む。

「いいか、実際に一回やってみるぞ。まずここの右端に矢印を合わせると――」

「へっ?!あのりっくん!?はぅ…その…うん」

「――で、次はこの紙に書いてある数字を秒に直して…」


「――それで1人分が終わり。あとは同じ事を人数分するだけ。えーっと、分かってくれたか?」

「え?…うん、その、なんとなく」

とりあえず全部手を動かしながら説明はしてみたものの頭がパンクしてそうなルナの様子から見て完全に理解したとは言えないようだ。

「とりあえず今言ったとおりにやってみてくれ。分かんなかったらまた聞いてくれればいいから」

そう言って俺も本来の作業に戻る。

それからは無言の時間がしばらく続いた。彼女は一人でブツブツ言いながら、ゆっくりとだが入力出来てはいるようだ。飲み込みは早いタイプなのか。ルナの取り組む横顔は真剣そのもので、端から見れば大長編の論文でも書いてるように見えるのだが中身はただの持久走のタイムなんだから、集中力の無駄遣い甚だしいってもんだ。俺は彼女より当然早く終わるので、1クラス分終わったら休憩がてら彼女の横顔と作業画面とボーッとながめ、ルナも終わったら2人そろってちょっと伸びとかして、また入力に戻るというルーティーンを繰り返した。


「ふぅ~これで6クラス目終わりだね」

そう言ってうぅ~んとルナが背伸びした。

「今日はこの辺にしとこうか?」

もう作業開始からかなり時間が経っただろうし、正直腕が疲れてきた。ルナも慣れないことをしたからか集中していたからか疲労がたまっているようだ。

「そうだね。これで1年生の3分の2は終わったし、今日はこの辺にしよ。アオちゃんは1週間でおわらせてって言ってたからこのまま行けば順調に終わりそうだし」

「1週間で終わらせたら仕事終わりか?思ったより楽な仕事だな」

「いや、違うみたい。みんなに配る案内プリントを作ったり物資の調達したりするんだって」

そう言いながら、ルナは窓の外を見つめ、何やら考え込むような顔をした。

「そういえば今って…、――あ」

「どうかしたのか?」

「あの、えっと、その、今日ちょっと用事があって、もう帰らないといけないんだった!片付け、お願いしてもいいかな?」

何やら急いでる様子だ。そんなに外せない用事だったのか。

「別に俺は大丈夫だけど」

俺がそう言っているそばからルナは慌てて鞄を手に持ち、「じゃあお願いします!」と早歩きで出て行った。

 急だったな。まあ俺とは違ってルナには友だちも多いだろうし、毎日スケジュールがびっしり埋まっているに違いない。どんな予定かは知らんがあれだろ、友だちとウィンドウショッピングとか一緒にアイスクリーム食べに行くとかだろ。葵の話じゃ彼氏はいなさそうだったがもしかしたらそれは葵の勘違いで、実は付き合ってる男とかいるのかもしれない。いや、俺の見た感じでもいなさそうだけどな。まあよく分からんが女子高生ってのは大変なもんだ、とひとりでに何か納得して体を伸ばすために窓のそばで軽くストレッチを始める。遠くに見えるビルの上には今日もとんでもなく元気に熱エネルギーを振りまいていた大きな太陽が輝いていて――ん?太陽?

あれ?今は何時だ。確か作業を始めたのは4時で、今は下校時刻直前の7時のはずだ。…俺の体感では。なのに太陽が未だ南西の真ん中にあって地面を照りつけているのはどうもおかしい。まるでまだ6時、いや5時のようだ。

もしかして、と俺は窓の下に目を向け校舎の横に離れて併設してある体育館のエントランスホールに目をやる。普段だったらまだコートを使わせてもらえない雑魚のテニス部員が素振りをしているはずなのだが、全くそのような人影はない。おかしい。テニス部がいなくても何処かしらの運動部が使うほどあのエントランスは貴重なコンクリートで出来た平地なのだ。…が見る限り誰もいない。耳を澄ます。窓を開けているのにも関わらず部屋はシーンとしていた。風でカーテンが靡く音以外は何も聞こえない。管理棟は基本部活動で使われていないから元々静かであるが、ここまで物音がしないと言うのはおかしい気がする。目線を体育館から左にそらし校庭を見る。ここで俺は確信した。また『アレ』だ。校庭には人一人いなかった。サッカー部だろうと陸上部だろうと誰もいなかった。しかしそいつらが使っていたであろう道具は無造作に放置されていて、今日はオフではないのが分かった。現にサッカーボールが風に吹かれて転がっている。そう、人だけがいないのだ。そしてまるで時が止まったかのように太陽は動いていない。数日前に駅で遭遇した現象と同じだった。人が消え、時が止まる。


 俺はまた無人の世界に迷い込んでしまった。

 

 いつからこうだったのだろうか。俺が部屋に入った瞬間からか。それとも作業を開始してちょっと経ってからか。はたまた俺が休憩でトイレに行った時か。いつからかは分からないがこれだけは言える。彼女だ。またあの夕霧 瑠奈が確実に関係している。俺は彼女の近くにいる時に2回もこのような目に遭っている。断言することは出来ないがかなり高い確率でこれは彼女と何らかの因果関係がある。

ほんのちょっと前に彼女が急いで帰って行ったのも、これに気づいたからだろう。それがなぜかはまだわからない。俺と一緒にいると何か都合が悪いのか。はたまた、俺に問いただされるのが嫌なのか。

でも俺は気づいてしまった。そして俺の好奇心とそして恐怖心は彼女を捕まえて質問攻めにしろと言っている。とりあえずこの古びた部屋に一人でいるのが何だか薄気味悪くて怖かった。そう考えた俺はとりあえずどっかに早歩きで行ってしまったルナに追いつくため部屋を出た。廊下はビックリするぐらい静かで、普通なら開け放たれている窓からは野球部のやる気のないマラソンのかけ声が聞こえたりするはずなのが今は聞こえないし、物音一つしない。やべ、マジで怖くなってきた。もし俺一人取り残されてたりしたらどうしよう。このままずっとひとりぼっちだったら?そうするとまた額に冷や汗が流れてきた。一刻も早くルナに追いつかなければ。

俺は階段に向かって走り出した。俺の足音だけが廊下中に響く。まだルナが生徒会室を出て行ってから数分も経ってないだろうし、走れば追いつくだろうと考えながら俺は角を曲がり――


「おわっ!」

「ぅきゃっ!」


人と正面衝突しかけた。

「危ないじゃない!…あれ?陸坊?」

月原葵だった。この上級生の顔を見た途端次第に耳へと雑音が流入しはじめ、どこからか下手っぴな吹奏楽部の演奏も聞こえてきた。

「全く、廊下は走らないって小学校で習わなかったの。危ないわよ。今のが宇部先生だったら絶対ぶつかって転げ落ちてるところだわ」

葵は小言を言いつつ俺の顔を見上げている。

「なあ、ルナ…夕霧とすれ違わなかったか?」

「ルナ?すれ違ってないけど。生徒会室でデータ入力してるんじゃないの?」

「いや、その今日の分は終わって、もう解散って事になったんだけど、その…伝え忘れたことがあって。それで追いかけようかなって」

葵は怪訝な顔をして

「もう終わったの?ほんとに?ちょっと見せてちょうだい」

と言って階段を上り、生徒会室に置きっぱなしになっていたパソコンの画面をのぞき込んだ。

「あら、結構進んでるじゃない。1時間でよくここまで出来たわね」

「1時間…?」

俺はそれを聞いてパソコンの画面に表示されている時刻表示を見た。そこには5時06分と表示されていて、どうやら俺たちが作業をしていた間に時は体感時間3時間の3分の1程度しか経過していなかったらしい。

「まだ時間あるけど、ルナは帰っちゃったの?」

「ああ、…用事を思い出したとか…言ってた」

「あの子に今日用事あったかしら…。まあいいわ。そしたら今日はここまでにしてもらって、続きは明日以降やってちょうだい。この調子だと1週間で終わりそうね」

なにやらルナと同じようなことを言っていた。


 それから俺はそそくさとパソコンを片付け、鍵を葵に託して校舎を出た。靴のかかとを整えている時、目の前を野球部のジョギングの列が通過した。なんてことはない、いつも通りの5時半過ぎだった。俺の体感時間と大分差があったこと以外は。

「なんなんだよ、あれは」

俺はそう独り言をつぶやき、駅へ向かって1.5kmの帰り道を歩き始めた。太陽はまだ比較的高い位置にある。駅で初めて遭遇した時もそうだが、やはりあの体験をすると体感と現実で時間に誤差が出るようだ。前回は数分も無人の駅にいたはずなのに実際に過ぎていた時間は1分もなかった。今回は3時間も作業したはずなのに実際の時間は1時間だった。いつから『あの世界』に入り込んだかはわからない。だが例えば、作業を始めて59分は普通の世界で、その後2時間は『あの世界』に入っていたと考えるのはどうだろう。そうすればあれはほとんど時間の止まった世界であると解釈することができる。もしくは、作業を始めた瞬間から迷い込んだのだろうか。そうすれば時間の流れが3分の1になっていると考えられる。いずれにしても『あの世界』には現実の時間より長い時間が流れていそうだ。まるで精神と時の部屋だな。ただし、あれが俺の錯覚もしくは白昼夢という可能性も捨てきれない。本当にそんな世界があるとは到底信じられないからな。全ては俺の夢……、いや俺と彼女の夢……と言った方がいいか?

何はともあれ共通点は一つ、夕霧瑠奈だ。

 明日彼女に知ってることを聞きたい。なぜ聞くかと言われるとそれはただの好奇心だ。こんなSFみたいな稀有な体験をしたらもっと詳しく知りたいと思うのは割と普遍的な真理ではないだろうか。別に悪事とか変なことに利用しようとしているわけではない。ただ気になるだけだ。しかし、これが毎回続くと言うのも薄気味悪いので、なんとか回避策も練り上げたいところだが。

 そんなことを考えていたら駅に着いた。駅はいつも通り、人で溢れていた。


翌日、火曜日。


 7限が終わった放課後、もう慣れ始めたルートを通って第二生徒会室に行ったところ鍵がかかっていた。どうやらまだ誰も来ていないようである。本家大本の第一生徒会室に鍵を取りに行くと、高竹が何やらファイルに挟んである書類とにらめっこしていたので、雑談ついでに情報収集をしてみることにした。内容はもちろん昨日の時の止まったような経験を他の人間もしているのかについてだが、まさかそのまま「お前最近時が止まったような誰もいない世界に迷い込まなかったか」なんて質問したらいよいよ頭がメルヘンになっちまったのかと失笑を通り越して引かれることは確実なのでそれとなしに匂わせていくことにする。

「最近ようやく過ごしやすい気温になってきたから居眠りしやすいよな」

「そうか?まだまだ暑いから居眠りすると汗べったりだ。不快で仕方がない」

「それは同感だ。俺なんて昨日居眠りしたら悪夢を見ちまったぜ」

「悪夢?全教科赤点とかか?」

「そんなもんじゃねえよ」

夢の話なんだがな、と俺はしっかり前置きしてから

「誰もいない学校に迷いこむっていうものを見たのさ。校庭にも体育館にも誰も人っ子一人いない世界に俺一人取り残されるってもんだ。まさに悪夢だろ?」

これは全部嘘というわけではなかった。俺は駅と昨日の生徒会室の体験を未だに夢ではなかったのではないかと半分疑っているし、俺の頭の中に存在する常識という名の評定衆もどう考えても夢だったという結論を導き出している。

「それはなんかのアニメの話か?そこまで悪夢でもない気がするんだが」

「それが結構悪夢なんだよ。誰も人がいない世界ってすごく不気味だし、音がなにもしなくて冷や汗が大量に出てくるんだ。お前もここ最近見たことないのか?そういう感じの夢」

それとなく高竹にも同じ経験がないか聞いてみる。

「ないね」

即答しやがった。

「俺が見る悪夢と言えば、ガキの頃に海で溺れて死にかけた記憶だけだ。あのもがいてももがいても息が吸えない感覚を思い出すと今でも鳥肌が立つ」

割とマジな悪夢じゃねえか。

「いいか、夢ってのはな、そいつの精神環境がもろに出るものなんだよ。本人が不安に感じると悪夢を見る。ラーメンを食べたいと願っていたのであればラーメンを食べる夢を見るだろうし、もしその夢が不快だった場合はその逆の、ラーメンを食いたくないってのがそいつの心の願いなんだ。だからお前が一人の世界に迷い込むっていう悪夢を見たのであれば、お前の心からの願いは一人になりたくないって事だ。お前ここ最近いつも一人で毎日過ごして平気そうな顔してるけど本当は一匹狼は嫌だって事なんだろうな。いいことじゃないか、悪夢を見ないためにも友だちもっと作れよ」

でまかせしか言わない占い師のようなことをし始めた。これ以上話しても俺が求める答えは出てこなさそうなので適当に切り上げて第二生徒会室に急ぐ。どうやらアイツは昨日の俺のような体験はしたことないようだ。俺より半年ぐらい多くルナと一緒に生徒会の仕事をしているはずのアイツが体験していないとするとやはり俺の錯覚か夢か。全く、俺の頭はフィクションに憧れ始めたらしい。やれやれと前髪をかき上げながら階段を上りきるとその原因かもしれない美少女は立ながら本を読んでいた。俺の存在に気づくと「あ、りっくん。おはよ」と鞄に本をしまいつつ、そのまま印象派の絵画の中に描き込んだらいろんな評論家に評価されるんじゃないかと言うぐらいかわいくちょっと微笑んだ。昨日と何も変わらないように俺には見える。昨日はどうしていきなり帰ったんだとかやっぱり君が例の現象に何か関わっているのかという疑問を心の中にしまいつつ鍵を開ける。それと「りっくん」とは俺の事らしい。どうやら「陸君」と言いたいところが舌っ足らずで「りっくん」になったものだと思われる。まあ呼び名なんて何でもいいや。

「さて、今日もがんばっていきますか」

「はぁい」

その二言で俺たちは約24時間ぶりにパソコンを開いて永遠にマラソンのタイムを打ち込むという単純作業を始めた。


 今日もずっと無言でパソコンとにらめっこをしているのは気まずいので適当な会話と休憩を挟みつつ作業を進める。とは言っても相変わらず話す内容は中学校の時の先生がどうだとか、駅前の中華屋で食中毒が出たとか、本当に雑談中の雑談、キングオブ雑談と呼べる物だった。得られた情報と言えば、彼女は一人っ子だと言うことと中学は俺の隣の学区の中央中学校らしいということぐらいだった。

そのあと、読みにくい手書きの数字に四苦八苦しながらパソコンを打ち続け、今日も6クラス分を打ち終えたが、そのころには「疲れたな」「疲れたね」ぐらいしか会話をする気力しか残っていなかった。肩と首ががまるで締め付けられたように痛む。もみほぐそうと俺が腕をぐるぐる回していると、ルナは急いでパソコンを閉じ、机の上に広がっていた紙やら筆記用具やらをそそくさと片付けて立ち上がった。

「じゃあ私、今日も用事があるから」

雑談の続きのような声で、しかし目を伏せたままルナはそう言い、ドアに向かった。

俺は素早く窓の外に目を向け、体育館前に誰もいないことを確認し、「待てよ」と声をかけた。

「またこれか?昨日もだけど、その、俺はまたおかしな世界に迷い込んじまったのか」

「この話はしないって約束でしょ?」

ルナは戸を開けて廊下へ顔を背けたまま言った。

「いや、でも気になるんだよ。不気味だし・・・。まだ・・・実害はないけどさ、でも俺こんなの経験したことないから」

「私もこの世界にいるのが嫌いなの。だから今日は帰るね。大丈夫、私が離れれば多分元に戻るから」

じゃあ、また明日とルナはそのまま出て行った。


そして数十秒もすると窓の外から烏の鳴き声が夕日とともに俺に届き始める。スマホを見ると5時30分。まだ作業開始から1時間も経っていないようだ。体感では3時間を超えていたんだがな。

「さて、帰るか」

俺はなんとなくそう声に出してみた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る