第18話:悪魔の襲撃
やはり傘を貸したのは失敗だったか。
そう後悔してしまいそうなほど、雨脚が強くなってきた。
大学に到着したユリアは、屋根のある所でようやくフードを取った。泳いできたのかと思えるほど全身濡れている。
無駄な努力だが、外套を軽く払いながら校内へと入ると、全身ずぶ濡れの少女(しかもシスター)は目立つらしく、チラチラと不思議そうな視線を送られてくる。ユリアは物怖じせずに、見てくる学生(見た感じで判断)に近づいてカーター教授の部屋を訪ねる。事故のことはすでに広まっているらしく、一層不思議そうな顔をされるが、彼女の幼い外見で警戒心が薄れたのか、教えてもらうことができた。子供扱いされたのは納得がいかないが、結果を見れば目的を果たせたのだから我慢だ。
何気なく眺めた窓の外。
そこには別校舎へ行くための渡り廊下があり、その窓に目が止まる。複数の人影が見えた時、彼女は胸を押さえて片膝を付いた。
心臓を氷の手で掴まれたような感覚がする。息が上がり、気持ちが悪い。膝が震えて立てない。
本能が訴えかける恐怖だ。
ユリアはもう一度、窓を覗くと、人影は隣の校舎へと消えている。
見た目は人間だが、間違いなく人ではない。それも、人に憑りついたなどという優しい代物ではない。完全なる悪魔。現世に肉体を持ち、人に擬態した存在だ。
なぜこんな所に?
荒い呼吸をしながら、壁に背を預けるユリアの頭に何度も同じ疑問が回る。
そして答えは簡単だ。
やはり、リチャード・カーター教授は悪魔に狙われていた。そして殺されてしまった。それが確信に変わった時点で、もはやユリアの手には負えない。彼女がすべきことは、全速力で来た道を戻り、アントニー司教に助けを求めることだろう。
心のどこかで、自分なら何とかできるのではないかと淡い期待をしていた。しかし、それはそんな生易しい物ではなかった。実際に面と向かって会ったわけでもないのに、これほどまで体が拒絶するとは。自分の大切な物全てを冒涜され、辱められたような。全身の細胞一つまで恐怖と嫌悪に染められたような感じだった。
四つん這いになりながらも何とかその場を離れようとした彼女の頭に、もう一つの疑問が浮かぶ。
悪魔はここへ何をしに来たのだ?
リチャード・カーター教授は死んでいる。ならば、ここに来る理由とは他に何があるのだろうか?
遠くでガラスの割れる音が聞こえてくる。
何かあったのだ。
未だに足に力の入らない彼女は無意識のうちに、胸に下げたカンタベリー十字を握りしめる。幾分か気持ちが楽になった。目を閉じ、息を整えてから、再び目を開いた彼女は、もはやか弱い少女ではない。未熟ながらも悪魔を祓うエクソシストの端くれになっていた。
何とか立ち上がり周囲を確認する。不思議と周りから人がいなくなっていた。人は悪魔などの危険から本能的に遠ざかろうとするからだ。妙な寒気が増してくる。
渡り廊下の入り口まで到着すると、やはりというべきか、隣の校舎から嫌な、邪悪な感じがする。そう直感的に思った時、一組の男女が渡り廊下をこちらに走ってきた。いや、逃げてきた。
2人は明らかに何かから逃げるように走っている。
「早く、こちらに!」
彼女は考えるよりも先に足が出ていた。
2人のもとに合流した時、空気が圧倒的に重くなった。それはもう、溺れてしまいそうになるくらい。
それらは姿を現した。
学生らしき黒いローブを来た男と、娼婦のような露出の高いレザーのドレスの細い女。見た目は人間でも、纏っているものは異質そのもの。姿を現した途端に周囲の気温は下がり、凍えるほど寒くなる。そして、鼻を突く硫黄の臭いもユリアの所まで臭ってくる。
「主よ。我らを導き給え、悪しき者を祓いたまえ!」
ユリアは2人の前に立ちはだかると、可能な限り出せる大きな声で叫んだ。裏返らなかったのは、自分で褒めてあげたい。
「この聖なる場から、今すぐ、立ち去れ」
ユリアが首に掛けたカンタベリー十字を掲げて叫ぶと、周囲の空気が震える。感じた寒さも納まってきたようだ。ユリアは祈りの言葉を唱えた途端、悪魔達はまるで何かに押しつけられているかのように動けなくなる。目には見えないが、彼女から発せられた力が悪魔とつながり、それが押さえ付けている。
自分の力が有効だと知ったユリアは、その光景に少し気が抜けた。そして、うれしさが爆発した。
「効いた! 見ました? 効いてますよ」
男女に振り返り、ユリアは興奮気味に言った。が、それがダメだった。
一瞬の緩みを見逃さなかった二体の悪魔はユリアの放つ聖なる圧力を力尽くで押し返した。それに耐えきれず、ユリアは情けない悲鳴を上げながら後方へ吹き飛び、廊下の端まで滑った。
「シスター、大丈夫か?」
ユリアの元まできた2人が心配そうに尋ねながら、起き上がるのを手伝ってくれる。
「な~んでこんなとこに、聖職者がいるの~?」
「さぁな、だが、どちらにしても、することは変わらんがな」
女悪魔の間延びした言葉に、学生姿の悪魔は鼻を鳴らしながら端的に答える。『聖職者』の単語の時には酷く顔をしかめた。
「逃げてください!」
ユリアの叫びと共に、3人は逃げ出す。
人の往来がある場所まで逃げることができ、少しホッとする3人。このまま人混みに紛れて逃げれる。そう思った時、背後で銃声がなった。
振り返れば女悪魔が銃を発砲していた。普通の人には見えないが、ユリアにはその銃から邪悪な炎が上がっているのが分かる。
騒然となる人々は、次の瞬間にはパニックになり散り散りに逃げ惑う。悪魔が適当に銃を向けて発砲しようとする瞬間。
重くのしかかるような圧力に膝をつく。ユリアが十字架を手に祈っていた。
「効くな~。祈りの言葉~」
無理に立ち上がる悪魔の体からは白い煙が出るが、そこまで効いているようには見えない。
「あなた方が狙われているのですから、ここは任せて逃げてください!」
ユリアは背後の2人に叫ぶ、まだ状況は分からないが、目の前で悪魔に追われている人がいるのだ。助けないわけにはいかない。ましてやカーター教授の時のような誤ちは犯したくない。
祈りを唱える言葉に力を込めながら、司教様ならばどうする、学んできたことは何か、を思い出す。ただ実はかなり限界に近い。頭の血管が切れてしまいそうだ。
しかし、ここあることに気付いた。
もう一体の悪魔はどこだ?
学生姿の悪魔の姿が見えない。
視線を周囲に向けると、地面を走る影があった。
その影は、逃げることに躊躇している2人のすぐそばまで迫っている。
「あ、危ない!」
悲鳴にも似た声でユリアは叫び、意識を影に向けた瞬間、ズルリと自分の中から何かが引き摺り出されそうになる。
意識が逸れたことで圧の弱まった女悪魔が逆にユリアの魂を引き抜こうとしたのだ。
祈りなどによる祓いは、自身の聖なる力を悪魔に繋いで命じるもの。悪魔にとっては防ぎようのない恐ろしい攻撃だが、逆に言えば聖職者の魂も悪魔と繋がっていることにもなる。平たく言えば、見えないロープを悪魔と結び、綱引きをしているようなものだ。
悪魔の方が強かったり、気を抜いていたりすれば、聖職者の魂が持っていかれてしまう。
ユリアは寸での所で踏み止まりながらも、視線を影へと向ける。
2人のそばまで迫った影から悪魔が飛び出し、男性に向かって鋭く発達した爪を向けようとしたが、隣にいた女性が咄嗟に悪魔の腕を掴んで遮る。止めるまではいかなかったが、標的の逸れた爪が地面を削る。
「レイ君。逃げて! キューブをこいつらに渡してはダメ!」
女性・ステファニーの必死の訴えで、レイは顔を歪めながらも踵を返す。
追いかけようとする悪魔をステファニーが妨害すると鬱陶しそうに手を振った。爪が軽く彼女の腕を撫でたかと思うと、引き裂かれて血が出る。深くはないようだが、ショックで顔から色を失っている。
だが、その隙に、ユリアは男の悪魔にも自身の力の一端を繋げることができた。
そして十字架を両手で掲げ、先ほどよりも強く祈りを捧げる。
悪魔2体は聖なる圧力に耐えて彷徨。不快で耳障り、体の芯から震えがくる声だった。悪魔達とユリアの力が拮抗し、彼女が持つカンタベリー十字は熱を持つ。手が焼ける感覚に、思わず手を離しそうになりながらも歯を食いしばる。しかし、視界が赤く染まり始め、鼻からも血が流れてきた。
意識が飛びかけた時、声が聞こえてきた。
「シスター。手をお貸ししましょう」
同時に発砲音。
女悪魔の攻撃かとも思ったが違った。学生悪魔の悲鳴が上がる。
「私、少々怒っているんですよ」
そこにはシルバーのリボルバーを持った男が立っている。
線の細い体躯に、整った顔つきはこんな時でなければ見惚れてしまいそうになる。雨に濡れた金髪から頬に伝う水滴すら艶めかしく、扇情的だった。そう、ヘンリーである。
「エクソシストが!」
忌々しそうに悪魔が叫ぶも、ヘンリーは気にも留めることなく、続けざまに発砲。対悪魔用に加工された弾丸が悪魔の肉体に叩き込まれる。
そして、空いている方の手を掲げると、そこにはロザリオが掛けられていた。
「さぁ、シスター。祈りではなく、祝福を」
ヘンリーの言葉で、彼女は考えるよりも早く口が動いていた。
祈りから祝福の聖句へ。2人の声が重なる。
「「主よ、この者達の罪をお許しください。汚れた魂をお清めください」」
悪魔から悲鳴、そして抱えきれないほどの憎悪をぶつけられる。真っ向から受け止める。胃の中をひっくり返されたかのような感覚だった。ユリアは、喉が潰れんばかりに叫ぶ。
「アーメン!」
何かが弾け飛んだような感覚に彼女は地面へと倒れる。
悪魔の人間の体が崩れ始める。
「このままで終わるとおも……」
学生悪魔が苦しそうに言葉を吐き捨てていたが、それを遮るようにヘンリーが近づく。
「はい。ご苦労様」
そしてそのまま額に銃弾を撃ち込んだ。
悪魔は燃え上がり、濃い硫黄の臭いを残して灰と火の粉に変わった。
残された女悪魔はユリアからの束縛は解けたが、ダメージがあるようで全身から白い煙を上げている。が、その目は憎悪に満ちており、体が大きく膨らみ始める。
しかし、突然現れた別の男に止められた。
それは労働者の恰好をした髭面の男で、悪魔だ。
「ここは引こう」
「えぇっ? こんな奴ら~。本体になれば勝てるのに~」
「標的は逃げた」
「あんたが、エクソシストを引き付けとかないからでしょ~」
「無理言うな。この短時間で2本も壊されたんだ。これが限界だ」
非難するように言う女悪魔に、髭の悪魔は自分の持つ鎖を見せる。5本のうち、2本が焼き切れていた。髭面の悪魔は「行くぞ」と短く言うと、踵を返して消えてしまう。それにため息を吐きながら女悪魔も消えた。
白昼堂々の悪魔の襲撃はひとまず終わった。
「大丈夫ですか?」
ヘンリーは血を流し呆然とするステファニーと、頭が割れそうに痛いが妙な達成感が体中を駆け巡っているユリアを起こしながら尋ねる。
そして、騒然となっている周囲を見渡してから、頭を掻いた。
もうすぐ、警察が騒ぎを聞きつけなだれ込んでくるだろう。うまく誤魔化さなければ。
「これは、レイ君を追うのも、ルーヴィックとの約束も少し遅れそうですね」
ポケットから懐中時計を取り出し、時刻を確認しながら、ヘンリーはペロっと舌を出した。
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