第11話:マザー・グースの悪魔使い

 広いボックス席を歩くと室温が下がっていくのを感じる。そして、噎せ返るような臭いにルーヴィックは顔を顰める。

 アヘンの臭いだ。そして、微かに硫黄の臭いがする。

 ルーヴィックの眼光の鋭さが増す。


 このボックス席の客は悪魔だ。


 楽しんでいるのは人間だ。ただし、下級の悪魔に漏れなく憑りつかれている。

 ルーヴィックはポケットに手を入れる。

 下級悪魔は現世に体は持ってくる力はない。人に憑りついたり、闇夜に紛れて人に囁いたりする程度の存在だ。ルーヴィック達からすれば雑魚だ。

 今すぐ暴れまわって、手当たり次第に地獄に送り返してやろうかとも思ったが、前を進むヘンリーが気にするそぶりを見せない。彼が周りに気付いていないわけがないのに。

 悪魔たちも、通り過ぎるヘンリーやルーヴィックに関心を示さない。

「おい。周りの奴ら……」

 しびれを切らせて前のヘンリーに尋ねると、彼は振り返ることなく答える。

「悪魔ですね。でもご安心。ここにいるのは全て彼とは協力関係にある者たちです」

「はぁ?」

「使役していると言うことです。ですから、ここの悪魔に手を出す必要はありません」

 下級とは言え悪魔を使役しているという発言に、ルーヴィックは驚くと同時に嫌悪感を抱く。悪魔の本性は残忍で卑劣で、人間の不幸を好物とする者たちだ。そう言った存在をこの世界から根絶するために命を懸けている。使役とはいえ、悪魔の存在を許すことはルーヴィックの中にはない。

 ますます奥の男のことが嫌いになってきた。

 ヘンリーもルーヴィックの反応が分かっていたからこそ、ギリギリまで黙っていたのだろう。

「ハンプティ! ご無沙汰していましたね」

 奥のソファに着く少し手前で、ヘンリーはいつも以上のテンションで声をかける。

 ソファの男・ハンプティ(マザー・グースのハンプティ・ダンプティからだろう)は仮面の隙間から覗く小さな瞳でヘンリーを見ると立ち上がる。

「ティンカー! アメリカに行ったと聞いてたが……」

「戻ってきましたよ」

「負け犬と奴隷どもが作った国はどうだった?」

「息が詰まりそうでしたね。やはり祖国が一番です」

 ハンプティへの苛立ちが増したが、ルーヴィックは耐えた。今はヘンリーに任せると決めている。

「その隣の奴は?」

「そのアメリカの友人のクルックドマンです。クルックドマン、彼はハンプティ」

 軽く手を上げるだけのあいさつで済ますが、ハンプティには気に入らなかったようで、鼻を鳴らす。

「躾がなってないな。これだから野蛮人は」

「まぁまぁ、それで折り入って、あなたの力が必要なのですが」

 延々と続きそうな無駄話をヘンリーは無理矢理に方向修正する。が、ハンプティの反応は芳しくない。

 彼は小さなため息を吐きながら、ソファから立ち上がり近づいてくると、ヘンリーとルーヴィックにグラスを渡す。

「それは、断る。今日は日が悪い。出直してくるんだな」

「ハンプティ。この世界にいい日も悪い日もありませんよ。あるのは永遠と続く今日があるだけです。少し聞きたいことがあるだけです」

「その今日の良し悪しを決めるのは私だ。お前に協力するとロクな目に合わない。こないだのことを覚えているか? 危うく私の殻(頭を指差し)から白身と黄身が弾け飛ぶとこだった。まぁ、酒でも飲んでゆっくりしていくんだな」

 語気を強めた拒否に、周囲の悪魔たちが会話を止めて一斉にヘンリー達を見つめている。人の目でありながら、不気味に輝いている。ヘンリーは口を開こうとするもハンプティはそれを片手で制し、2人の持つグラスに酒を注ぐとソファへと戻っていく。

 彼が戻ると何事もなかったかのように、周囲の者たちも会話を再開する。

 ヘンリーは下唇を突き出し困ったような表情をしてからルーヴィックへと視線を送る。

「こっち見んな。何とかしろよ」

 冷たく言われてヘンリーは渋々といった感じでハンプティへと近づく。

「ハンプティ。そういうわけにもいかないのですよ。話だけでも聞いて……あ、すみません」

 ハンプティに近づこうと一歩踏み出すと、悪魔たちが立ち上がり行く手を遮る様に見つめてくるので、ヘンリーは慌てて踵を返して戻ってきた。


「やれることは、やりました!」


「おい! スコットランドヤード、しっかりしてくれ」

 ぼやくルーヴィックにヘンリーは口を尖らせる。

「私はどちらかと言えば内勤派なんです。騒ぎを起こしたくはありませんし、こうなっては日を改めましょう」

「冗談だろ?」

 2人がやりとりをしているうちに悪魔たちもジリジリと距離を詰める。襲い掛かってこない所を見ると、大人しく引き下がるなら良し、そうでなけれぼ力づくでも追い返すと言う意思表示なのだろう。

 確かにしっかりと使役できているようだ。

「怪我をする前に早い所降りましょう。少し時間を置けば、彼も気が変わるかもしれません。今は変に刺激しないでください。彼は何だかんだで協力してくれる男ですから」

 早口で言いながらヘンリーはルーヴィックの肘を引っ張るが、彼は動かない。


「下級悪魔を祓うにはどうすればいい?」


 急な問いかけに、ヘンリーはキョトンとしてから、顔から色を失う。

「だ、ダメですよ。だいたいこんな大人数……」

 慌てるヘンリーにルーヴィックはへらへら笑ってポケットから手を出した。

「祈りで追い払うのもいいが、この人数だと面倒だ」

 その手の上には魔除けの銀貨があった。それをしっかりと握りこむ。

「やっぱり、こいつが一番手っ取り早い。昔ながらのアメリカンスタイルってやつだ」

 ルーヴィックは獣のように歯を見せて笑い、ヘンリーに向かってウィンクした。


 次の瞬間には、ルーヴィックが目前の悪魔を殴り飛ばしていた。

 殴られた瞬間、耳を覆いたくなるような金切り声は発しながら、男は糸が切れたかのように倒れる。

 ルーヴィックは続けざまに2発、3発と標的を変えて拳を叩き込む。先ほどの男と同様に、彼の拳を受けた者は崩れ落ちていった。

「る、ルーヴィックっ! 約束したでしょう!」

「あぁ、銃は使ってない」

 ヘンリーの悲鳴にも近い声に対して、ルーヴィックは悪戯っぽく笑う。

 彼の大立ち回りでその場は騒然となっているが、1階の喧噪などもあるため、気付いた人間は案外少ない。

 ルーヴィックはテーブルやソファを踏みつけて奥のハンプティまで最短距離で近づいた。

 呆気にとられて動けないハンプティは、彼が目前まで来るとさすがに危険を感じて逃げようとするも、その巨体のせいでうまく動けていなかった。

「おい、こら。ライミー(イギリス人の蔑称)。悪魔を使役するとは悪趣味だ」

 そう言うと、ハンプティの胸ぐらをつかんで引き寄せると壁に押し付ける。

「そ、それは使い方による。大いに役立つこともあるのだよ。こんなことをして……」

 話の途中だったが、ルーヴィックはハンプティの右手の人差し指を強く握りしめる。

「いい指輪だ。真鍮と鉄でできてるのか?」

 その指には美しい宝石のはめ込まれた指輪がある。先ほど、酒を注ぎに来た時に見つけた。

「お前の指をへし折って、こいつを奪ったら、悪魔どもはどうなる?」

 指を掴む力を強くしながらルーヴィックは尋ねる。

「お、おおおお、おいおい。待て待て。これはどういうことだ? ティンカー? やめさせてくれ」

 ルーヴィックの凶暴さに顔から色を失い、助けを求めるようにヘンリーへと視線を投げかけた。が、彼は少し離れた所で虚空を見ている。

「いえいえ。私は無関係ですよ。その彼が誰かも知りませんから。いやー大変ですね~」

「噓付け。さっきまで親しげに話してたろ! おい、目を逸らすな。こっち見ろ!」

 必死で言うがヘンリーは動かない。

「分かった分かったから。少し落ち着け」

 ヘンリーが当てにならないと分かると、ハンプティは諦めたように手を振った。すると悪魔たちはそのままボックス席がゆっくりと出て行く。

「まったく、駆け引きの『か』の字も知らん奴だ」

 呆れながらハンプティは大きなため息を吐いた。

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