第2章:事件の香り
第8話:悪魔の臭い
ロンドン駅。
「いい天気ですね。今日は~」
ロンドンに着くまで完全に熟睡していたヘンリーは、気持ちよさげに伸びをしながらホームへ降りる。
「それで? どこから始めますか?」
ヘンリーの問いに答えは返ってこない。ルーヴィックは列車から排出される白い蒸気を忌々しそうに払いながら、近くにある売店へと歩いていた。
「まずは馬車を手配して、拠点となる私の部屋に荷物を置きましょう。今後の予定は、馬車の中で話す、で構いませんか」
起きたばかりとは思えないほど元気なヘンリーを鬱陶しそうにあしらいながら、ルーヴィックは新聞を購入して一言「任せる」と。
眠っていない頭にこのテンションは堪える。
ため息を吐きたい気持ちを抑えながら、荷物を持ってヘンリーの後を追った。
ヘンリーの提案には基本的に賛成だ。
まだ着いたばかりで、まずは情報を集める必要がある。どこへ行くべきかは、重い荷物をどうにかしてからでも問題はない。
ヘンリーは適当に馬車を手配して、一旦彼の部屋へと向かうことになった。が、その行先は途中で変更することになる。
ようやく着いた故郷と言うこともあり、ヘンリーはいつも以上にテンションが高く、通り過ぎる店や建物を馬車の中から説明してくる。
それを全て無視して、ルーヴィックは先ほど買った新聞に目を通していた。
「ルーヴィック。異国の地を訪れるなんて、なかなか無いことですよ。知識や経験は人生を豊かにするスパイスですからね」
「その知識で悪魔に勝てるなら、喜んで取り入れるよ」
ぶっきらぼうに返すルーヴィックに、ヘンリーは少し不機嫌にツンとした顔になる。
「着いたばかりで何から調べればいいかも分からない。どこに行くべきかを相談してくれるわけでもない。どうするおつもりですか?」
馬車に乗ってから今後の行動の話し合いもない状況に、ヘンリーも少なからず不満はあるようだった。ルーヴィックは、そんな彼を一瞥してから新聞を見せる。
「必要なのは情報だ。何気ない、埋もれてしまいがちな事件や事故こそ、悪魔がらみなことが多い」
ルーヴィックの見せる紙面の端に小さな記事があった。
事故で亡くなった人物の身元が判明したというものだ。
名前はリチャード・カーター。大学で教鞭を振るう教授だ。その人物が2日前の深夜、道端で焼死体として見つかった。近隣の住人の話では、悲鳴が上がってすぐに通りを確認すると、全身を炎に包まれた男性が倒れていたという。周辺に怪しい人影はなく、可燃物をかけられたような形跡もない。警察は煙草に火を付けようとしたが、衣類に付着した化学物質に誤って引火した事故ではないかと見ている。全身を焼かれたため外見からでは身元の把握が難しかったが、ようやく分かったようだ。
ヘンリーは顔から色を失いながら、食い入る様に記事を見る。
しばらく黙って読み込んだ後で、視線をルーヴィックに戻した。
「この事件に悪魔が関わっていると?」
「さぁな。調べれば分かることだ。違うかもしれないが可能性はある。悪魔絡みでも、俺たちの件とは別ってこともな。だが、答えを探して歩き回るよりも、ヒントを集めて辿った方が近道だ」
「では、行先は大学に変更ですね」
そう言うと、ヘンリーは御者に行先の変更を告げた。
その大学は1800年代になってできた学校で、有名なオックスフォードやケンブリッジなどに比べれば歴史は浅い。テムズ川沿いにいくつかのキャンパスがある。
ヘンリーはそのうちの一つに馬車を止めさせた。
洒落た石造りの大学には、学生らしき人たちが足早に歩いている。
ルーヴィックはヘンリーの後ろを付いて歩いた。途中、学生にリチャード・カーター教授について尋ねるが、さすがはスコットランドヤードだ。相手は快く教えてくれた。これがルーヴィックではこうも簡単にはいかなかったろう。
さっそく、ヘンリーが一緒にいて、助かったとほんの少し感謝した。
リチャード・カーター教授の部屋へ着くと、扉が少し開いていており、中から声が聞こえる。
覗いてみると2人の男性が女性に話しを聞いていた。
女性はまだ若い。線の細い体付きにブロンドの髪を後ろで縛る。筋の通った鼻や意志の強そうな目からは知的さを感じられた。
男の方は一目で何者か分かった。
警察だ。
ダークブラウンのコートに黒いボーラーハットを被った中年と、その隣で熱心にメモを取っている制服姿の若者がいた。
「それでリチャード・カーター教授は、変わった様子はなかったですか? トラブルに巻き込まれたとか、悩んでいる様だったとか」
中年の男が訊ねると、女性が少し考えながら「先生は研究第一の人でしたから、常に悩まれているような顔をされていたので」と答える。
「どのような研究をされていたのでしょうか?」
「それは私も興味があります!」
中年の質問に、扉の外で聞いていたヘンリーがいきなり声を上げて部屋に入っていく。
「こんにちは、私、スコットランドヤードのヘンリー・プリーストです」
相手の反応も見ずに彼は部屋の真ん中まで進むと、女性と握手した。
「プリースト警部? どうしてここへ?」
驚いて声を上げる中年の顔には、明らかに『邪魔な奴が来た』と書いてある。スコットランドヤードでヘンリーの立ち位置は、あまり良くないようだ。しかし、邪険にしない辺りを見ると、何かしら扱いづらい存在といったところだろうか。
「これはこれは、ジョーンズ警部。この事件に興味がありましてね」
「お父上の警護でアメリカに行っていると聞きましたが?」
「はい。ご心配をおかけしましたが、無事に帰ってまいりました!」
綺麗に笑って答えるヘンリーにジョーンズ警部は苦虫を噛み殺したような顔をしながら「なんなら、戻ってきてもらわなくても良かったんですがね」と小声でぼやく。
「さて、お話を戻します。ここは亡くなられたリチャード・カーター教授の部屋ですが、あなたは?」
ジョーンズ警部を置いて、仕切り始めるヘンリーの矛先が女性へと向いた。
「ステファニー・ローズです」
「教授とのご関係は?」
「助手をしていました」
「随分と若い助手だな」
口挟んだのはルーヴィックだ。
「お前は誰だ?」
ジョーンズ警部は怪訝な顔をしながら尋ねる。
「あぁ、彼はルーヴィック。私の相棒です」
ヘンリーの回答に面食らった顔をしたが、それ以上は反論しないため、ルーヴィックもそれ以上何かを言うことはない。その代わりステファニーへの質問を続ける。
「教授とは親しかった?」
「え、はい。助手ですので、他の人よりは」
「肉体関係も?」
「はい? いえ、ないです」
レディに対して失礼な質問に、ステファニーはギョッとしてから、少し口調を強めて否定した。
「失礼。若く美しい。しかも女の助手だったもんで、ついな」
「それで! 教授の最近の様子はどうでしたか?」
険悪な雰囲気になりつつあるのをヘンリーが割り込んだ。
「先ほども言いましたが、先生は研究熱心な方でした。最近は特に重要な物を手に入れたとかで、必要がない限りは研究室を出ない有様で」
「重要な物?」
「詳しくは私も教えてもらえませんでしたが、郊外の農家で畑を掘り返した際に出てきた、と。1度見させていただきましたが、黒曜石か何かでできたキューブ状の遺物でした」
そう言いながら、ステファニーは手でサイズを現す。こぶし大ぐらいだろうか。ルーヴィックは一層興味が湧き、ヘンリーを押しのけて訊ねる。
「そのキューブは、ここに?」
期待を込めた質問だが、ステファニーは首を横に振った。
「先生がお持ちになっていたはずですが……今は、どこにあるか」
「それはどんな物で、なぜ重要なのかは聞いていないか?」
「詳しくは、ただ聖書の内容を実証しうる可能性がある。世界を滅ぼすような発見だと」
「世界を滅ぼす……救うではなく?」
ルーヴィックの圧に少し引きながら彼女はただ頷いて見せた。
「……それで、他には何かありませんか?」
しばらくの沈黙の後で、ヘンリーが口を開いた。その質問にステファニーは考えこみ、そしてあることを思い出す。
「そういえば、最近、どなたかとよく手紙のやり取りをされておりました。詳しくは知りませんが、文字の感じから女性だと思います」
「その方に心当たりは?」
「ありません……あ、あの、それと先生の死が関係あるんですか?」
「いえ、形式的な物ですよ」
「でも、先生の死は事故だと警部さんが……」
「まぁまぁ、そう気張らずに。それで、最近の教授は本当にいつもどおりでしたでしょうか? 些細な変化などでも構いませんよ」
不審がるステファニーにも関わらず、ヘンリーはグイグイと質問をする。
「は、はい。特に変わりはありません」
「いつも通りだった……?」
「ええ、なぜですか?」
「いえいえ。別に」
「プリースト警部、もういいでしょう」
遮る様にジョーンズ警部が割り込む。
「いい加減、いろんな事件に首を突っ込んで、捜査の邪魔をするのは止めていただきたい。あなたに、今回の件を捜査する権限はないんですよ。いいですか。今回の教授は事故死です。そろそろ出て行っていただけますか」
口調は丁寧だが、それは拒否を許さないものがあった。
追い出された2人は校庭を歩く。
「どう思いますか?」
「まぁ、教授が見つけたっていうキューブが気になるな」
「ですよね。何か、臭いますよね」
「死ぬ時に持ってた可能性もあるな。望み薄だが」
「今まで身元不明だったので、まだ安置所にあるかもしれませんね」
2人は立ち止まって、先ほどまでいた教授の部屋に振り返る。
リチャード・カーター教授の死の真相がどんなものなのか、それはまだ分からない。
しかし、この件には悪魔が絡んでいる。
ルーヴィックの嗅覚はそう言っていた。
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