北海道産ムラサキ雲丹/山口静花 への簡単な感想
応募作品への、主催者フィンディルから簡単な感想を置いています。
指摘については基本的に「作者の宣言方角と、フィンディルの解釈方角の違い」を軸に書くつもりです。
そんなに深い内容ではないので、軽い気持ちで受け止めてくださればと思います。
北海道産ムラサキ雲丹/山口静花
https://kakuyomu.jp/works/16816927863199352324
フィンディルの解釈では、本作の方角は西北西です。
面白いと思います。「理性を保った飲み席の後の夜」を例の鮨屋の味と粋の夢に浮かさせてもらうことで穴埋めをする。
ただそれはすっきりとした浄化といえるのかというとそれは微妙なんですよね。味と粋も、その夜を凌ぐ姑息にしかなっていないのでは、みたいなところがタクシーと飴に滲んでいてとても良かったです。応急処置の夜というか。
じゃあ真の浄化を「わたし」は求めているのかというと、そういうわけでもなくて。応急処置はしたいけど本格的な治療まではしたくない、みたいな微妙な願望があるんじゃないかなと思います。
そういうところに、一人の人の人生や生き方が表現されているなあと感じました。そこそこの経済力と人間関係と忙しさを持っている人は、大なり小なりこういった不満と満足を抱えながら生きていると思います。
純文学らしさ、西らしさというのが全編にわたって出ていると思います。治療の夜なのか応急処置の夜なのかで、方角は大きく変わってくると思います。本作は西向きです。
ちょっとだけ気になったのが、分業っぽさを感じたところです。
これは想像ですが、おそらく山口さんは「鮨の描写をしたい、食レポ描写をしたい」から始まってそこに、『「わたし」の人生が窺える夜』をはめて西向きの小説として成立させたんじゃないかなという印象をフィンディルは持っています。そのように感じた理由は、食レポ描写に感じる美しさがニュートラルな共感性を纏っているからなんですけども。
食レポ描写は真っ当に美しくて真っ当に美味しそうで、そこに西らしさはあんまり感じなかったんですよね。ではどのように西らしくしているかというと、タクシーでの描写とか大将との会話とか、そういう描写なんですよね。
食レポ描写は真っ当に美しい、そこに不随するやりとりに西的な深みを出す。それはそれで良いと思うのですが、分業がはっきりしてしまうと、食レポ描写が食レポ描写を超えてこないようにも感じられました。
フィンディルとしては、食レポ描写は食レポ描写で美しいんだけど、それを読んでいるうちに何故かいつのまにか『「わたし」の人生が窺える夜』の深みに読者の身体がとっぷり浸かるような感覚が出ると、もっと読み応えが出るのかなあと思います。本作は「この文・場面で深みを出しているんだな」が澪標みたいにわかっちゃうのが、少し気になったところです。
どうして「わたし」は「理性を保った飲み席の後の夜」には決まってこの鮨屋に来るのか。この鮨屋には「理性を保った飲み席の後の夜」にしか来ないのか。これをやりとりでなしに食レポ描写オンリーで出せるようになると、もっと人生と夜が深く見えてくるかなあという気がしました。「わたし」は「単に美味しいから来ている」わけではないんですよね。
食レポ描写が真っ当に食レポ描写である点、分業が見える点で、真西でなく西北西かなという印象です。全部の文章で『「わたし」の人生が窺える夜』が出ると真西かなと思います。
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