南十字に血を捧ぐ/佐古間 への簡単な感想
応募作品への、主催者フィンディルから簡単な感想を置いています。
指摘については基本的に「作者の宣言方角と、フィンディルの解釈方角の違い」を軸に書くつもりです。
そんなに深い内容ではないので、軽い気持ちで受け止めてくださればと思います。
南十字に血を捧ぐ/佐古間
https://kakuyomu.jp/works/16816927862904788872
フィンディルの解釈では、本作の方角は北北西です。
吸血病という特徴的な設定を起点にして、そこから心情や関係性の変化を描いた作品だと思います。
ミモザの心情や彼に対しての想い、そして終わり方など、書かないことを良しとする書き方からはほんのりとした西の香りがします。およそこれが必要十分の書き方だと思います。良いと思います。
一方、本作で描かれる心情は「ミモザの心情」ではなく「吸血病に罹った者の心情」なんですよね。極論を述べるなら、吸血病に罹った者ならミモザでなくても本作は成立すると思います。特徴的な設定を起点にすると作品が走りやすくなるのですが、その設定から心情が脱出できないままだと、どうしても西としては弱くなってくると思います。何一つ設定的な特徴のない通行人Aがただ通行するだけで一作品を紡げるのが西向きだと考えます。
北として考えるなら、特徴的な設定に物語をリードしてもらう書き方は定石だと思うので良いんですけどね。
ただ「設定から心情が脱出していないが作者自身としては純文学的だと思っているので大衆文学的な構成に注力しない」だと、総合的なパワー不足に終わってしまうので注意が必要です。
ということでフィンディルとしては北北西の判断です。
また気になったのは、吸血病設定に文字数を割きすぎなのではないかというところです。前振り→説明→反芻と、非常に贅沢に文字数を使っている印象があります。設定の定着と細部の補充を狙ったものと思われます。
ただこうすると後半のミモザの心情と関係性変化のパートが、窮屈・駆け足に見えてしまうのです。パートだけを見ると必要十分であったとしても、吸血病設定パートと見比べると窮屈・駆け足に見えてしまうという相対的な懸念が浮かびました。Aさんは七畳の部屋が心地よいとしてもBさんに二十畳の部屋が与えられていたら、客観的にAさんが窮屈に見えてしまう感じですね。
この相対的なバランスにより、「本作は何を伝えたい作品なのかな」という見られ方がされてしまうおそれもありますので、作品全体のバランスでパートパートに割く文字数を吟味してみるとより読み応えが増すと思います。
余談ですが、本作は吸血病→吸血鬼なんでしょうね。
つまり「吸血病は吸血鬼を連想させる病気」じゃなくて「吸血病の諸症状から吸血鬼のイメージができあがった」のだろうなと。そりゃあ吸血病の諸症状は吸血鬼のそれと酷似するわけで。
その現実世界と作中世界との、文化の作られ方の差異が面白いと思います。
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