第16話 「いただきます」
異様な雰囲気を纏った月海は、目元に巻かれていた赤い布を掴む。その直後、背後に黒いモヤが現れ始めた、それは徐々に形を作り、一人の青年になっていく。
『やりますか、月海』
「あぁ、今回は特に気にする必要は無い。ムエン、お前が持つ悪魔の力を、俺に貸せ」
『承知』
ムエンと呼ばれた180センチある青年は、口の端を上げ白手を身につけた手を左右に広げ始めた。肩にかかってる黒いジャケットが風に吹かれ翻る。
床に足をつけ、革靴特有のコツッという音を鳴らす。その瞬間、月海の背中へとモヤと共に溶け込むように姿を消した。
「
掴んでいた赤い布を解き、風に舞う。月海はその場から足を踏み出し、そのまま梨花へと近づいていく。そんな彼の右半身は、徐々に黒く染っていった。
右の顔半分が黒く染まり、首も痣のようになっている。口元に浮かんでいる笑みは酷く歪んでおり、窪んでいる両眼も楽しそうに笑っているように見えた。
先程までとは違い、口調は荒く一人称が"俺"になっている。裏人格である月海が梨花の言葉によって目覚めてしまった。
「私は、もう……疲れた」
豹変した月海に気づかず、梨花は何も写さない瞳で彼を見上げた。そんな瞳にすい込めれるように月海は顔を下げ、見えていない視界で彼女を見る。その際、ポケットに入れていた右手を抜き出した。
「そうか。なら、俺が殺してやるよ。いいよな?」
取り出したのは、使い古されたカッターナイフ。持ち手には赤黒い物が付着しているが、刃は何度も変えているのか銀色に光り月海と梨花を映す。
彼の問いかけに、梨花は小さく頷いた。それにより、カッターナイフの刃を梨花の首筋に添える。
逃げようとしない彼女の行動を心からの肯定だと判断した月海は、添えたカッターナイフを迷うことなく動かし頸動脈を切った。
血が噴水のように溢れ、梨花は最初理解できず目を開き困惑した。だが、すぐに意識が無くなり始め、開かれた瞳は徐々に閉じかける。
その時、口が微かに動きを見せかすれた声を出した。雨音で消えた声だったが、月海には聞こえ、口元に笑みを浮かべ優しく息を吐く。
『 とう』
空中に舞った鮮血は、時間が止まったように地面に落ちない。何かの形を作るように、数個の塊が生成される。それは、まるで赤いユリ。
花びら一つ一つが外に開き、綺麗に咲き誇る。空中を舞い、地面に落ちると弾けるように消えてしまった。
梨花の瞳から光が消え、体からは力がなくなり地面へと倒れ込む。そこへと降り注ぐように、まだ舞っているユリの花がゆっくりと回転しながら落ちる。まるで、彼女が苦しみから解放されたのを、祝っているように。
倒れ込んだ彼女を見下ろし、黒く染った右手に握られているカッターナイフを静かに月海は下ろした。
彼の後ろに立っていた暁音は、赤いユリを見つめ手を伸ばす。だが、風に乗っているユリは掴もうとした彼女の手から逃げるように逸れた。それにより、なにも掴めなかった右手は、握ったまま自身の胸に引き寄せられ、なにも掴んでいない手のひらが開かれた。
何もない手のひらを見つめ、暁音は濡れている事など気にせず顔を上げる。
今だこと切れている梨花を見下ろしてる月海に近付くため、右手を下ろし足を踏み出した。
暁音が近づいて来ている事に気づいている月海だが、一切動く事なく見下ろさ偉続ける。
全てが終わったというように、先ほど月海の体に溶け込んだムエンが青年の姿で現れた。無表情で、目の前で倒れ込んでいる梨花の事などなんとも思っていない。
目を細め、つまらないというようにモヤに包まれ姿を消した。
二人は無言のまま梨花を見下ろし続けたが、暁音が確認するように目線は固定しながら問いかけた。
「本当に死んだのですか?」
「当たり前だろうが。俺がここまでしてやったんだ。ここで死なずにいつ死ぬんだよ」
「そういう事ではないような気がします」
「なら、なんだよ」
「……なんでもありません」
「結局それかよ。なら、最初からなんも言うんじゃねーよ」
「……今回、田端さんは心から死にたがっていたという事で間違いはないのでしょうか」
表情一つ変えず二人は淡々と話していたが、月海の物言いように呆れた瞳を向け始める暁音。
これ以上突っ込んでも仕方がないと思い、ため息をつきつつも違う質問を問いかけた。
月海は質問されているにもかかわらず、何も反応を見せない。不思議に思い、暁音は隣に立つ月海を見上げる。
答える気がない月海だったが、彼女からの視線に耐え切れなくなり。めんどくさそうに頭を掻き、顔を暁音に向けた。
「お前、自分で気づいてねぇの? それか俺を馬鹿にしてんのか? もし俺を馬鹿にしているのなら今ここで殺してもいいんだぞ」
「殺すのならどちらでもいいですよ。ただ、そうなると約束とは異なってしまいますが、いいのですか?」
暁音は”殺す”と言われているにも関わらず、一定の口調を崩さず淡々と返し続ける。
「それはそれで面白くねぇな」
「そこが基準なんですね」
「当たり前だろうが、んな事をいちいち言ってんじゃねーよ。それだからてめえは自分についてもわかんねぇーんだろうが。少しは考えてから発言しろ」
「そこまで言いますか。まぁ、いつもの事なので良いですが」
「ふん!」
腕を組み暁音に言い放ったあと、月海は遠慮なく梨花の上を跨ぎ屋上を出ようとする。その時には、黒く染っていたはずの右手はいつもの肌色になっており、カッターナイフの刃も戻されていた。
「それで、放置ですか……」
「ここからはてめぇらの仕事だろうが。いつもみたいにやっておけ」
「別に構いませんが……」
暁音の言葉には答えず、月海は屋上から姿を消した。そんな背中を見つめ、呆れたように息を吐きムエンの名前を呼ぶ。すると、暁音の右肩辺りに黒いモヤが現れ小学生くらいの少年が姿を現した。
「食べてもいいの??」
「えぇ。いいらしいわよ」
「わぁい!!!」
姿を現したムエンは、暁音の返答に子供のように両手を上げ喜んだ。暁音の周りを飛び回り、目を輝かせる。
目で追っていた暁音の正面で止まり、今まで隠れていた白い牙を口の隙間から覗かせ始める。袖で隠れている右手を口元に持っていき、黒いもやを作り出す。口からも息を吐く度、同じモヤが吐き出されムエンを包み込む。
「それじゃ、"いただきます"」
渦の中に閉じ込めるようにムエンを包み、姿を眩ませる。徐々にそのモヤは月を覆い隠す程大きくなっていき――――弾けた。
中から現れたのは、黒い毛並みを纏った月の光を隠してしまうほど大きい狼。
全身黒い中、赤く光る両目。その瞳は屋上の床で横になっている梨花へと注がれた。
ガァァァァァァァァァァァアアアア!!!!!!
地面が震えるほどの遠吠え。空気が震え、この場のすべてを今。ムエンが支配した。
暁音は雨が降り注ぐ中、ムエンの遠吠えを耳にしつつも見上げるのみ。この後、何が起きるのかもうわかっているため冷静に見届ける。
地面に転がっている梨花に狙いを定め、ムエンは大きく口を開く。ブラックホールが広がっているように感じる大きな口内。上下には、簡単に人間の体など嚙みちぎる事が出来そうな牙が並んでいた。
開いた口をどんどん花びらと共に髪を揺らしている梨花へと近づけていき、頭から咥えた。そして、夜空を見上げ、残りの下半身も口の中へと放り込む。喉が上下に動き、彼女はムエンのお腹へと入って行った。
「少しは力を蓄えられた?」
「うん!! 美味しいよ!!」
狼の姿だったムエンは、満足するとすぐに少年の姿へと戻り、暁音の肩に乗る。おいしかったらしく、頬を薄く染め舌を出し返答した。
「それなら良かった」
そのような言葉を交わし、暁音もムエンと共に屋上を後にする。
残されたユリの花は、風に吹かれ宙を舞い、夜空へと舞い上がった。
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