第7話 「殺してやるよ」

 月海の言葉には感情が乗っておらず、淡々としている。無表情から発せられているため、感情を読み解く事ができない。今もなお、亜里沙をいつでも殺せるようにカッターナイフを下ろさない。


 何が起きたのかわからない、何をすれば正解なのかわからない。そのような状態なため、亜里沙は困惑で動けず目を離せない。


 彼の質問に答えられないでいると不機嫌そうに、月海は手に持っていたカッターナイフを下げた。刃をしまい、ポケットへと戻し先ほどとは違う言葉を問いかけた。


「お前、なぜ逃げた」

「え」

「さっきからてめぇは『え』しか言ってねぇじゃねぇか。なんだ? 日本語わかんねぇのか? 残念ながら俺は日本語しか知らん。それが通じねぇんなら、殺す」

「待って待って! おかしい! 絶対におかしい!!」

「なら、さっさと答えろ。お前は、なぜ俺から逃げた」

「えっと……怖かった……から」

「なぜ怖かった。何が怖かった」

「…………えっと」

「正直に言えや」

「あ、貴方が怖かった……」


 カッターナイフから開放された亜里沙は顔を逸らし、月海の圧に押されつつボソボソと答える。その言葉に、月海は感情を変えず、低く少しかすれた声で淡々と質問を続けた。


「具体的に、何が怖かった」

「…………」

「これか?」


 月海が自身の目元を指す。その事に、亜里沙は戸惑いながらも小さく頷いた。


「あと……カッターナイフ……」

「なるほどな。つまりお前は、"殺される"と思って逃げたんだろ」

「……………え」

「人間が恐怖を感じる時、それは大抵自分に危ない事が起きると脳が勝手に変換した時だ。今回てめぇは”自分は殺される”と、脳が勝手に変換した。だが、さっきてめぇは言っただろう。自分なんて死んじゃえばいい、とな。俺はそれを叶えてやろうとしただけなんだが。なぜかお前は逃げた。なんでかわかるか?」


 月海の言葉に亜里沙は反応しない。滅多な事を言うと今度こそ殺されると思い、迂闊に話せず体を震わせるのみ。だが、次の彼の言葉で肩を大きく飛び跳ねさせた。


「お前は、死にたくないんだよ」

「……っ!」

「本気で死にたいと思っている奴は、俺から逃げねぇ。恐怖を感じているということは、てめぇがまだ現世に心残りがあるからだ。まぁ、単純に痛いのが怖いって感情もあるかもしれないがな。てめぇの場合は前者だろ」


 亜里沙の心に問いかけるように話し、月海は大きく溜息を吐き頭を搔く。そして、いきなり人の名前を何もない空間に呼んだ。


「ムエン」

「はい!!」


 月海が呼ぶと、何も無かった空間から急に少年が姿を現した。

 おかっぱのような黒い髪型に、右目は真紅色、左目は藍色と左右非対称の瞳。白いワイシャツに黒いベスト。肩には、少年が動く度に揺らぐジャケット。足元には革靴が履かれていた。 

 白いワイシャツはサイズが合っていないのか、両手をすっぽりと隠してしまっている。

 ぱっちり二重のオッドアイは、月海の窪んでいる両眼に向けられ。にんまりと、楽し気に右手を口元に持っていき笑った。


「僕の力、今以上に使うの?」

「あぁ。おめぇの力を俺に貸せ」

「わかった!!!」


 子供のように無邪気な返事をし、ムエンは空中を舞う。そんな少年の背中には、悪魔のような翼があり、小さくパタパタと動いていた。

 突如現れた子供に驚き、口をあんぐりとさせ、まだ床に座り込んでいる亜里沙。そんな彼女と目線を合わせるため、月海は目の前でしゃがみ右手を彼女の両目へと伸ばし覆った。


「へっ、あ、あの……」

「おめぇは、死にたいんじゃねぇ。ただ、どうしようもない感情を"死"という言葉でごまかし、逃げているだけだ。”死にたい”と口にし、”死”を理由に自分の感情と向き合わず逃げているだけだ。”死”を、逃げるために使うんじゃねぇ。”死”は自分を奮い立たせるために使うんだよ。死という恐怖から逃げ続け、現世で抗い続けるために利用しろ」


 抑揚がなく、感情を読み取れない。だが、亜里沙には何か通じるものがあったらしく、覆い隠されている目元から一粒の涙が流れ、彼の手の隙間から落ちる。


「それでも、死にたくなったらいつでも来い。俺は旧校舎二階、3ーBにいつでもいる。その時は必ず──殺して解放やるよ」


 その言葉を最後に、亜里沙は何故かいきなり体から力が抜けたように床へと倒れ込んだ。閉じられている瞼からは涙がこぼれ、頬を伝う。だが、表情はなぜか清らかで、安心したように見えた。

 そんな彼女を、月海は闇に染っている両眼で見下ろし、その場を後にしようと立ち上がり歩き出す。だが、廊下の奥から名前を呼ばれ、その場に立ち止まった。


「月海さん。結局、殺さなかったのですね。死にたがっているのかと思っていました」

「うるせぇよ。この後はお前の好きにしろ」


 暁音の言葉を適当にあしらい、月海は暁音の横をすり抜ける。その際、任せたというように彼女の肩に手を置き、先の見えない暗闇へと姿を消した。


 外はいつの間にか風がおさまっており、雲が流れ月が顔を見せている。

 暁音は窓に近づき、煌々と輝いている月を見上げた。


「……どうして人は死にたいと口にするのに、死なないんだろう。死にたいのなら、死ねばいいのに」


 呆れたように言葉をこぼし、床に倒れてしまっている亜里沙へと近づいていく。その場でしゃがみ、規則正しい寝息を立てている亜里沙の頭に手を伸ばした。

 サラサラな髪を撫でると、すり寄るように暁音のぬくもりを求める。


「…………暖かい」


 すり寄せられると暁音は驚きで一瞬目を開く。だが、すぐ冷静になり、手を離す。後ろにはムエンが飛んでおり、小さな翼がパタパタと動かしている。


「お疲れ様、ムエン」

「アカネ!!! 僕、頑張ったよ!!」


 声をかけられ、頬を染め嬉しそうに翼を動かし感情を表す。そんな少年の頭を撫で、暁音は再度お礼を口にした。


「旧校舎のドアを開かないようにしたり、彼女を眠らせてくれたり。色々やってもらっているんだけど。最後の仕事もお願いしていい?」

「もちろんだよ!! ルカとアカネのためなら頑張るよ!!」


 両の拳を握り、床に倒れている亜里沙へと近づいていく。少年の後ろ姿を見続けていた瞳は、今回の出来事に終わりを告げるように、そっと閉じられた。


「死を逃げる理由に使うな──か。私の場合は、なんなのだろうか。失ったと言われた感情を取り戻すため、死を利用した。この、月海さんとの約束は……」


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