第6話 「死にたくないんか?」

 亜里沙ありさは、いきなり豹変した月海るかから逃げるため。埃や段ボールなどが転がっている、長く続いている廊下をただひたすらに走っていた。


「はっ……っ……。なんなのよ。あの男!! さっきとはまるで、別人じゃない!!」


 彼女の月海に対する第一印象は、情けない人だった。怯えているくせに、なぜか人を引っ張り旧校舎へ。そのあともなぜここに連れてきた理由を話そうとしない。いや、話したくとも、怯えすぎて離せない状態だった。だが、今はまるっきり違う。


 人が怯えている姿を楽しみ、何をしでかすかわからない。何をされてもおかしくない状況を理解してしまい、亜里沙は泣きながら逃げるしかない。


 息を切らし、もつれる足を何度も立て直しながら必死に玄関へと向かって走る。その間も窓はガタガタと音を鳴らし、廊下をどんどん闇へと吸い込んでいく。

 視界が悪くなっていく中、亜里沙の前方に目印のように淡い光が見え始めた。


「見えた!!」


 涙でぼやける視界に映る光。亜里沙は瞬間的に玄関だとわかり声をあげる。そのまま走り、玄関へとたどり着きドアノブを握り、勢いよく押して駆けだそうとした。だが、なぜかドアが開かない。ガシャンガシャンと音を鳴らすのみ。


「っ、なんでよ!! どうして!! どうしてドアが開かないの?!」


 焦りや怒りで感情的になっているため、力任せで開けるしか今の彼女の頭にはない。だが、よく見てみると。このドアには鍵がなく、外に付けられていた南京錠は小合わされていたはず。

 古く、整備されていないドアなため。無理開けようとすれば簡単に壊れてもおかしくない。そのはずなのに、亜里沙はドアを開けることや壊すこともできない。ただただ音を鳴らすだけ。


 そんな時、後ろからぺた……ぺた……という足音が響く。


「ひっ!?」


 音が聞こえた瞬間、亜里沙は肩を大きく震わせた。顔を真っ青にし、ドアから手を放さず、首だけをおそるおそる後ろへと振り向かせる。


 まだ、足音を鳴らしている人物の姿は見えない。だが、どんどん足音が大きくなっているため近づいているのは容易にわかる。

 ドアを背にどんどん近づいてくる足音の方を、亜里沙は怯える瞳で見続けた。


 すると、大きく伸びている影が曲がり角から姿を現した。その影はユラユラと揺れ、何かを探すように首を左右に動かしている。


 体が震え、恐怖が亜里沙の身体を拘束する。動く事ができない体で人影を見ていると、足を止め腕を動かし始めた。

 人影の手は胸元まで上げられ始め、その手には細長い"何か"が握られている。先端が尖っているため、今の亜里沙の脳内ではその影を鋭利な刃物と解釈。


 がたがたと震える足が、相手の持っている物を理解した時。とうとう我慢できず崩れ落ちてしまった。腰が抜け、再度立ちあがることができない。口を塞ぎ、なるべく音を立てないように、人影の反対側へと下駄箱の影になるように這いつくばりながら逃げる。


 ゆらゆらと動いている影が見える曲がり角から、白い靴下とベランダサンダルが顔を覗かせた。そこから徐々に白衣や黒いジャージが見え始め、口をつまらなそうにへの字にしている月海が完全に姿を現した。そんな彼の手には、キラリと光るカッターナイフ。握る部分には赤黒い何かが付着していた。


「鬼ごっこは、もう飽きたなぁ」


 低く、重苦しい声でつまらないというように呟き、誰もいないように見える玄関にない瞳を向ける。

 姿を現してしまった月海を見て、下駄箱で姿を隠していた亜里沙は動けなくなってしまった。


 息を殺し、この場を耐えしのごうと口に手を当てる。かすかな音すら出さないように気を付け、ただひたすらに月海が去って行くのを舞った。


「さぁて。切れた糸は、修復できるかねぇ?」


 見回していた顔を下駄箱でぴたりと止める。誰に問いかけるでもなく、言葉を零した。その言葉の意味を理解できない亜里沙は、涙を浮かべ動かず耐えしのぐ。


 すると月海は、地面に転がっているダンボールを思いっきり蹴りあげた。

 亜里沙が隠れている下駄箱の近くにある壁へとぶち当たり、中に入っていた教材が床に転がる。何が起きたのか理解できない彼女は、体をビクッと、大きく震わせた。


 また近づいて来る足音。もう我慢できなくなった亜里沙は恐怖で失禁してしまう。それでも動けずへたり込んでいると、下駄箱に色白の手が伸びた。そこから顔を覗かせたのは、歪で、狂気的な顔を浮かべた月海だった。


「見つけたぞ」

「あ……あぁ…………」


 カタカタと震え、見上げるしかできない。目元にとどまっていた涙は頬をつたい、スカートを濡らす。

 逃げようにも体が言う事を聞かず、声を出そうにも喉がしまってしまい言葉を発する事が出来ない。


 顔だけを覗かしていた月海が、どんどん亜里沙に近づき、手を伸ばせば届く距離にまで来てしまった。


「もう、ここからは逃げられねぇぞ」


 亜里沙を見下ろし、そのまま腰を折り亜里沙の肩を掴む。

 口が裂けそうなほど口角を上げ、窪んでいる両眼で目の前で震えている亜里沙を見つめた。


「おめぇはさっき、言ったよなぁ? 『死んじゃえばいいんだ』とな。自分の言葉には責任を持とうぜ? なぁ?」


 ねちっこく、人を馬鹿にするように口にすると、相手が女性というのも関係なしに両手で両肩を掴み無理やり立たせた。


「きゃぁ!!」

「何だお前、おもらしか? どんだけ怖がってんだよ」


 亜里沙の下半身と床を見て、月海は少しだけ驚いたように遠慮なく口にする。今は恥ずかしいという感情より、恐怖が上回っている状態。それでも少しは恥ずかしいため顔を赤くし、涙がとめどなく流れ、顔を俯かせる。


「まぁ、いいわ。お前がどんな状況だろうと関係ねぇ」


 掴み、亜里沙の身体を浮かせていたが。そのまま掴んでいた手を緩め彼女を落とす。足に力が入っていないため、濡れている床へとしりもちを付いてしまった。


「んじゃ、殺らせてもらうぞ? いいな。だって、自分で言ったんだからよ。せいぜい地獄で、自分の言動を恨むんだな」


 その言葉と共に、月海は片手に持っていたカッターナイフを振り上げた。月光を反射し、きらりと刃が光る。

 むき出しになっている刃に、亜里沙の怯えた顔が映った。涙でぐしゃぐしゃになり、ただ見あげることしかできな彼女に向けて。


 唇が避けるほど横へと伸ばし、白い歯を見せ。笑顔のまま、亜里沙目掛けてカッターナイフを振り下ろした――……



「い、いやだぁぁぁぁぁあぁぁぁぁ!!!」



 亜里沙の、喉が裂けそうなほどの甲高い叫び声が廊下に響く。そんな声が響いた瞬間、月海のこめかみがピクリと動く。振り下ろしていたカッターナイフを、彼女の右目に当たる直前で止めた。


 衝撃に備え目を閉じていた亜里沙は、いつまで経っても何も来ない事を不思議に思いゆっくりと目を開ける。すぐ目の前には止まっている刃先があり、驚きと恐怖で咄嗟に動く事も声を出す事すらできないでいた。


「…………おい。今、なんて言った」

「…………え?」

「今お前、"嫌だ"と、言ったか?」


 月海の突然の質問に答える事が出来ず、窪んでいる両眼を見る亜里沙。

 闇が広がり、目の前にいる亜里沙を吸い込もうとしているように感じる。だが、なぜか目を離すことができず見続ける。


「おめぇ。死にたくないんか?」


 刃先を向けながら、月海は抑揚のない口調で彼女に問いかけた。

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