第5話 「私の存在価値はない」

「あの、落ち着いて佐々木さん」


 どんどん近づいてくる亜里沙に、暁音はどうすればいいのかわからない。とりあえず落ち着くように伝えるが、それ以上の言葉が思い浮かばず言葉が続かない。

 暁音の声は亜里沙に届いているが、それでも彼女は気にせず、暁音に同じ事を何度も何度も問いかけ続けた。


「そんな事簡単に言わないでよ。私が私ではなくなるなんて。そんなの分かってるよ。今がもう私ではない。私は何も出来ない。ただ、笑っていればごまかせる。笑っていれば周りの人も笑ってくれる。でも、私は笑いたくない。疲れるんだ。でも、でも──」


 暁音に近付いていた足を止め、亜里沙はいきなり頭を抱え始めた。頭の中に今までの行いや、不安などが流れ、我慢できずしゃがんでしまう。膝に顔を埋め、体を震えさせる。そんな彼女に暁音は憐れみの瞳を向け、なんと声をかけようか悩みながら口を開ける。だが、そこから発せられるのは言葉ではなく、空気。何を言えばわからず、口を閉開させるのみ。


 暁音がなんと声をかけようかなんでいると、亜里沙は少し落ち着いてきたのか。顔を上げず小さな声でぼそぼそと何かを話し出した。


「…………私は、なんで存在しているのか分からないの。何も分からないの。私は、普通の家庭で生まれて、周りの人には恵まれている。でも、それでも心が落ち着かない。他の人なら流してしまいそうな事でも、私は気にしてしまう。誰にも言えない。こんな訳の分からない感情。だから、こうするしかないの。こうするしか、無いんだ」


 元から小さかった声はもっと小さくなり、最後は耳を澄まさなければ聞き取ることすら出来ないほどになってしまった。

 そんな彼女を目の前にして暁音は視線を一度、亜里沙の後ろで座っている月海へと移す。視線を感じたのか、彼は合図を送るように小さく頷いた。

 月海の合図にわかったと、暁音も頷き返し、もう一度亜里沙に視線を戻した。彼女と同じ目線になるようにしゃがみ、支えるように肩に手を置き、極力優しく話しかけた。


「それでも、自分を傷つけるのはだめよ。それは一時的でしかない。解決なんてしないのよ。ねぇ、ここで悩みを話してみない? 少しは心が楽に──」


 暁音の言葉を耳にしていた月海は、白衣を戻すと布で見えないはずの目を二人へと向ける。めんどくさいと思いつつ、その場にゆっくりと立ち上がり「思った通りか」と言葉をこぼした。


 亜里沙は暁音の言葉を聞いた瞬間、心の中で渦巻いていたどす黒い感情があふれ出い、顔を上げ甲高い声で叫び出した。


「うるさい!!! だから嫌なんだよ!! そうやって何も分からないくせに"やめろ"という言葉だけをぶつけてくる奴らは!! もううんざりだ! 辞めれたら辞めてるし、言われただけで辞めれるならこんなにやっていない!! 何が話を聞くだよ!! どうせ聞いたところで分かってくれないくせに!!」


 悲痛の言葉を荒い息で亜里沙は言い放った。そんな彼女を見上げる暁音は、無表情のまま横目で月海を見る。

 彼は視線を受け取り、口をゆっくりと動かした。


『き れ た』


 口の動きを見て理解した暁音は、顔を戻し先ほどと同じ顔で亜里沙を見上げる。


 興奮しているのか顔を赤くし、血走った瞳を暁音に向けていた。怒りで体は震えており、下唇を噛み何かに耐えている。いろんな感情が暁音の言葉で吹き出してしまい、どうすればいいのかわからず手を強く握り、苦痛の表情を浮かべてた。


「もう、何が何かわからないんだよ。何も出来ない、何も分からない。なにに悩んでいるのかも分からない! ただ、モヤモヤするだけ。それをどうにかしたいからリスカをしたの! 何も分からないから! どうする事も出来ないから!! もう、こんな……こんな私なんて――」

「あ……」


 亜里沙は我慢しきれず両手で頭を抱え、今彼女を苦しませているすべてを吐き出すかのように。喉が切れてしまいそうなほどの声量で叫んでしまった。この場では言ってはいけない、禁句を――……


「私なんて!!」


 興奮して出てしまった亜里沙の言葉。その言葉により、その場の空気が一変する。

 先程まで明るかったはずの辺りは急に暗くなり、なぜか外が荒々しく風が吹き荒れ始めた。

 外の木が斜めに倒れ、風が窓をガタガタ鳴らす。こんな古い旧校舎など、簡単に壊れそうで憂虞ゆうぐする。

 

 いきなり場の空気が変わってしまったため、亜里沙はこみあげていた感情が困惑に変わり、忙しなく周りを見回し始める。何がどうなってしまったのか。なぜいきなり、この場の空気が冷たくなったのか。

 暁音は知っているため慌てず、何かを感じ取るように顔を俯かせ瞳を閉じた。


「これでよかったのかしら……」

「な、何よ急に……」

「……そうね、簡単に言うと。貴方は今、言ってはいけない言葉を言ってしまったの。後はもう、《もう一人の月海さん》がどう行動するかになっているわ。頑張って」


 冷静に暁音は、閉じていた瞼を開けまっすぐ亜里沙を見ながら口にした。

 亜里沙は驚きと困惑のまま。感情に身をまかせ口を開こうとした時、背後で何かが動く気配を感じ固まった。

 恐怖で体を小刻みに震えさせ、額から冷や汗を流す。それでも背後で何が起きているのか気になってしまった亜里沙は、ゆっくりと。後ろで動いているを見る。


 亜里沙の視線の先には、顔を俯かせている月海がいた。髪が彼の顔を隠してしまい、表情を見る事ができない。猫背だった背筋をゆっくりと伸ばし、顔を上げた。

 散歩をするように床をギシキシと鳴らし、目元に巻いている赤い布の端が彼の後ろで揺れながら亜里沙へと近づき始めた。


 長い前髪を揺らし、口の端は横へと延びる。白い八重歯がちらりと見え、下唇をなめる。


 先程までの空気とは代わり重く、不気味な何かを纏っているように感じる月海から逃げるように。亜里沙は、歯をカタカタと鳴らし、暁音に助けを求めようと手を伸ばす。そんな手を、暁音はよくわからないまま見つめるのみ。首を傾げどうすればいいのか考えるが、横に垂らしている自身の両手を動かそうとしない。

 助けて、と。言葉を発しようとしたが、それより先に月海の声が先に廊下へと響く。


「おい。


 声自体には大きな変化はない。だが、先ほどの月海とはまるで違う。少し楽しげな低い声が風の音と共に、三人がいる廊下に響く。

 顔を俯かせながら、月海は右手を頭まで上げ目元に付けている布を握った。


「"死んでしまえばいい"か。なら、お望み通りにしてやるよ」


 亜里沙は暁音に伸ばした手をそのままに、後ろから近づいて来る月海を見る。

 怖くて、怖くて仕方がない亜里沙は、近くに立っていた暁音の両肩を掴み縋りつく。どうして自分に縋りついて来るのかわからない暁音は、亜里沙の右手に自身の手を添え月海を見た。


 そんな目線など気にせず、月海は笑いながら足を止めず近づいていく。一人の足音だけが聞こえ、風の音が響く廊下に反響して亜里沙を恐怖の感情で包み込む。


 自身の肩を掴み震える亜里を暁音は見下ろし、眉を顰める。どうすればいいのか悩んでいるうちに、足音は止まる。月海が手を伸ばせば二人に届く距離まで近づいていた。


 暁音は月海を見あげ、彼は視線を感じ取り顎をくいっと動かしそこをどけと指示を出す。

 素直に従った暁音は、掴まれている両肩にある手を容赦なく払う。そのことに亜里沙は驚き、目を開く。小さな声で暁音の名前を呼び、再度手を伸ばすが意味はなく、空を掴む。

 いきなり後ろに引っ張られ、亜里沙は手を伸ばしながら、首を回し後ろを見る。同じタイミングで、月海は赤い布を引っ張りッくしていた目元を露わにした。

 

「死にたいのなら、

「ひっ?! きゃぁぁぁあああ!!!!」


 露わになったはずの月海の目元には、なぜかあるはずの瞳がない。ぽっかりと二つの穴が空いており、闇が広がっている。

 口元は酷く歪んでおり、怯える彼女を見て楽しんでいた。


 叫び声と共に、月海に掴まれていた肩を大きく動かし払った。そして、暁音を思いっきり押し走り出した。

 そんな彼女の後姿を暁音は無表情で見ており、月海へといつものように話しかける。


「やりすぎないでください。可哀想ですよ」

「あぁ? うるせぇよ。死にてぇ奴なんざこの世に必要ねぇんだ。死を望んでいるなら、お望みを叶えてやるのも、他人であるの仕事だろ?」

「ただ、人が恐怖のどん底にいるのを楽しんでいるだけでしょ」

「そんなこと言うなら、先にお前を殺してやろうか?」

「どちらでも構わないですよ。ただ、そうなると貴方とのが果たされずに終わってしまうだけです」

「つまんねぇ返答だなぁ。まぁ、今はどうでもいい。邪魔すんじゃねぇぞ」

「わかっています。早く、


 抑揚のない暁音の言葉を耳にし、月海は窪んだ目を向けたかと思うと、すぐに逸らし亜里沙が去っていった方へと歩き出した。


「"がために働け。がために手を伸ばし続けろ。何も出来ないからこそ、がために生き続けろ"か。月海さんとの約束とは、大違いなのよね」


 胸元に手を置き、暁音は言葉をこぼす。

 去っていった二人の後ろを追うように、暁音は足を一歩前へと踏み出した。

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