第2話 キスの味はいちご味
杏璃の部屋で、私達は杏璃のお母さんが用意してくれたケーキを突いていた。
「んー! やっぱりはづが来てくれるとママが美味しいケーキ出してくれるからいいなー!」
目の前で杏璃がイチゴのショートケーキを頬張る。
あまりにもおいしそうに食べるものだから、こちらも微笑みを浮かべてしまう。
口に白いクリームがついているけれど、そんなことはおかまいなしと言った風に、満面の笑みで味を堪能している。
「もう、口にクリームがついてるよ」
「そういうはづだって、白いヒゲ生えてるよ。サンタさんみたい!」
「えっ、ほんと?」
お手拭きで口を拭うと、クリームらしきものがお手拭きについていた……恥ずかしい。
「これから毎日うちに来てよ。そしたら毎日ケーキ食べられるんだからさ」そんな提案を、杏璃がしてくる。素敵な提案に聞こえるけれど……
「ダメだよ。毎日お邪魔なんて出来ないし、杏璃が太っちゃうもん」
「はづは太らないの⁉ あたしだけ⁉」あはは、と互いに笑う。
やがてケーキ1カットを平らげ、アイスティーを飲み干す。さて、これからやる事と言えば……
「さぁ、宿題やるよー」
机の上に宿題を置いて、とんとんと縦にそろえる。
夏休みは始まったばかりだけれど、宿題を早く終わらせなきゃ。宿題が早めに終わったら、杏璃といっぱい遊べるもんね。
「ちょっと待って」
手の平を差し出してぴた、と杏璃が止めた。
「な、なに?」
「宿題よりも、大事なことがあるでしょ?」
「大事なこと?」
いつになく神妙な面持ちで杏璃が言うものだから、身構えてしまう。黙々と杏璃がノートとサインペンを取り出して、何かを書き始めた。
「宿題よりも大事な……私達がやるべき大事なこと……それは……」ごくり、と生唾を呑んで、杏璃の言葉を待つ。
「つまり、これです!」
手に持ったノートを、クイズ番組の芸能人がフリップを見せるような置き方で机に置いた。
そこに大きく書かれていたのは……
キス
の二文字。
「 んん?」
見間違いかな? と二度見するも、そこに書かれた文字が変わる事はなく。 というか杏璃、それ宿題用のノートなのに見開き2ページでそんな事書いて
大丈夫なの?
「私達もそろそろキスするべきだと思うんだけど! そう思わない⁉」
「え、ええっと……」
神妙な顔つきで何事かと思いきや、ある意味いつもの杏璃で安心したのだけれど……
「き、キスって……まだ早いんじゃないかな……」頬が熱くなるのを感じなら、目を逸らす。
キス。口づけ。
確かに、恋人同士がするものなのだろうけれど……いざ口に出されると、恥ずかしいものがある。
「甘い! さっき食べたケーキより甘いよはづは!
いい? ねーちゃんが読んでた雑誌だと、カップルは付き合い始めて3か月以内にはキスの一つぐらいはするものだって書いてたんだもん!」
「そ、そういうものなの?」
思い返すと、4月初めから付き合い始めたので……
「もうすぐ4ヶ月か……」
しみじみと思い返すけれど、恋人らしいことなどしただろうか。互いの家に上がったりしては勉強して、ゲームして。
あとは……手を繋いだりとか?
何というか、友達の時でも出来るようなことばかりしていた気はする。少しは何かしら進展があってもいいとは思っていたのだけれど……
「で、でも……! キスはちょっと……」
私と杏璃が、キス。想像するとやはり恥ずかしい。
「ねぇはづ」
杏璃の声のトーンが急に下がる。
「はづは、あたしとキスするの、いや?」
少し悲しげなものを帯びた杏璃の目が、私を見る。
「……そ、そうじゃないけど……!」
じぃ、と。未だに私を射抜き続ける彼女の目線から目を逸らす。キスなんて、想像するだけでも恥ずかしい。
それに、あまりにも非現実的な気がしてくる。
キスなんて、映画やドラマの中でしか見たことがない。でも。
(これじゃあ前に進めない……)
恋人同士なら、そろそろ何かしら一歩踏み出そう。
「……わかった」
一考の末、私はキスすることに決めた。
「マジ? やったー!」
さっきの態度とは一変して、両手を広げて、杏璃が歓喜の声を上げた。
……もしかして、演技なのではないだろうか……いや、でもこの子切り替え早いからなぁ……。
「じゃあ早速しよう!」
そう言って杏璃がおもむろに立ち上がる。
(……キスって、そんなに張り切ってするものなの?
そんな私の疑問をよそに、杏璃が私に寄ってきて、立たせてくる。やがて部屋の真ん中で、向かい合うように私たちは立った。
「じゃあ、あたしが誘導するからね」自信満々に杏璃が宣言した。
私から出来るわけもないので、言い出した杏璃が誘導せざるを得ないのだけ
れど……。
私と杏璃がちょうど同じぐらいの身長なので、目線が水平にかち合う。
「………」
こう、静かに向かい合って立つというのがあまりにも稀な光景だ。
「………」
私はじっと、杏璃の唇を見る。
薄いピンク色の、小さな果実のような唇。
そんな可愛らしい唇が、私のものとくっつくこと考えてしまうと……やはり、恥ずかしい。
でも……今更『やっぱり無理!』なんて言えない。
杏璃のやる気を挫くのは悪い気はするし、私も前に進もうと決めたところなんだ。
「じゃあ、目を閉じて」
指示に従って、目をつむる。視界には何も映らない。
私の顎に何かが触れた。杏璃の手だ。あったかくて、柔らかい。
目を閉じていても、ゆっくりと何かが近づくのを感じた。杏璃の顔だ。さらっと、細い塊か何かが頬に触れたのは……髪、かな?
そして……
「んっ……」
唇と唇が、重なった。
見た目通り、柔らかくて。想像した以上にあったかい。私の心臓はとくとくと早鐘を打つ。
数秒の沈黙。聞こえてくるのは、自分の心音と互いのかすかな息遣いだけ。人生初めての、キス。しかも女の子と。……でも、悪い気はしない。
好きな人と、こうして静かに唇を重ねるのは……なんだか、特別な時間を過ごしているように感じる。
数秒の末、ゆっくりと唇が離された。
「……どうだった?」
「どうって……」
そんな事を興味津々な顔で杏璃が訪ねてくるも……何と答えればいいのだろうか。
終わってみるとこう……恥ずかしくもあり、達成感もあるけれど、『こんなものか』しかというちょっとした呆気なさも感じる。
「ドキドキしたっていうか……んー、難しいなぁ……」
「あたしもドキドキしたよー。でもね、はづ」
ぴと、と。杏璃が私の下唇に人差し指を置いてくる。
「もっとドキドキするキスがあるんだよ。
知ってる? 『おとなのキス』って言うんだけどぉ……」
……おとなのキス?
「こう、舌と舌を絡ませるんだって」
自分の二本の人差し指を舌に見立てて、杏璃が絡ませた。
……舌と、舌? それに何の意味があるのだろうか。
「……してみる?」
ちょっと妖しさを含んだ顔で、杏璃が尋ねてくる。
舌と舌を絡ませる。普通なら、ちょっとばっちいと思ったりはするのだけれど……杏璃とだったら、してもいい。
それに……舌と舌を絡ませるキスに、どんな意味合いがあるのかちょっと知りたくなってきている。
好奇心に負けた私は「うん」と、そのまま首を縦に振った。
「じゃあ……もう一回、目閉じて」
言われるがまま、さっきと同じように目を閉じる。同時に視界が閉じられ、何も見えなくなる。
「んっ……」
再び、唇と唇が繋がる。でも今度は……少し違う。
ざらっとしつつ、ぬめり気のある感触が、口の中に入り込んできた。杏璃の舌だ。
「はっ……んっ……」
さっき杏璃が食べていたショートケーキの、甘ったるい味がする。 小さいけれど、熱くて柔らかい。ぬめっとしていて、ざらざらする。それに……なんだか変だ。
(なにっ……これぇっ……)
頭の中がじんじんする。身体の奥底から熱くなる。こんなの、初めてだ。
「ふぅっ……ちゅっ……んっ……」
口の中で、杏璃の舌がもぞもぞと探るようにうごめく。
杏璃の舌が動くたびに、私の身体はぴくり、ぴくりと小さく波打つ。私の意思とは全く無関係に。
「ちゅっ……はぁっ……」
「れろっ……んぅっ……」
部屋の中に、舌が絡み合う唾液混じりの水音と、濡れた吐息の漏れる音が充満する。
「ふぅっ……んっ……」
「んっ………!」
思わず口の中で力が入る。
「 っ!」
そして、息が苦しくなったので、互いに口を離した。
「はぁっ……はぁっ……」
「はぁっ……ふぅっ……」
互いに酸素を求めて呼吸が激しくなる。 まるで水面に顔を出した池の鯉みたいだ。
「どう……だった……はづ……?」
息も絶え絶えに、杏璃がそんな事を尋ねてきた。
「どう、って……」
初めて味わう感覚に、どんな感想を言えばいいのかがわからない。
「よくわかんないけど……頭が真っ白になりそうっていうか……熱いっていうか……」
頭がじんじんして、身体が熱くなって。それでいて悪い気分じゃない。
「杏璃はどうだったの?」
「んっ……なんていうか……気持ち良かった……?」気持ちいい。そうか……これ、気持ちいいんだ。
不思議と悪い気はしなかったし……むしろ、もっとしてみたい、という好奇心さえ働くような。
今まで感じたことのない『気持ちいい』。
正体が分かっても、その感覚に色々戸惑う。
「でもね、はづ……言いづらいんだけど……」
「えっなに?」
「舌、思いっきり噛まれた……いたい……」
んべ、とちょっと涙目になりながら杏璃が赤白い舌を見せてくる。よく見たら、わずかに歯型が見えた。
きっと、口の中で力んでしまった時につけてしまったものなのだろう。
「ご、ごめん!」
「いいよ大丈夫。じゃあ、いっぱい練習しよ?」
「え、練習……?」
「だって、これからいっぱいするかも知れないじゃん。おとなのキス」
「……!」
今のを……これからも。
「ま、またするの……⁉」
「え、しないの……? もうしたくない?」
「そ、そういうわけじゃ……!」
さっきの『おとなのキス』を、これからもしていく事を考えると……私の身が持つのかと心配になってくる。
頭の中がじんじんしてくるようなあの感覚が、ずっと襲い掛かってくるのは
……正直、ちょっと怖い。
杏璃だって、さっきまで息も絶え絶えだったのに。
「んー……じゃあ、これで練習しよ?」 杏璃がポケットから何かを取り出した。可愛らしい花柄の紙に包まれた飴玉だ。
「これをお互いのベロに絡ませた上で転がすの。
美味しいし、かじらないように意識したらいいんじゃないかな?」
「それ、効果あるの?」
「さぁ? でも、試す価値はあるんじゃない?」
杏璃の信頼出来るのか分からない提案に乗るかどうか一考する。
「んー……」
でも、これから杏璃とお付き合いしていくにあたっては……もしかしたら、大事なことなのかも知れない。
杏璃とキスをするのは……どうにかなるんじゃないかって怖さもあるけれど
……決して嫌というわけではない。
むしろ、心のどこかで求めているような。
なんだか、私が『恥ずかしいけどもう一度したい』という気持ちを『怖い』という別の気持ちで蓋をしているみたいで嫌だ。
「……練習しておくにこしたことはないかもね」
もう一度、私は杏璃と『おとなのキス』をすることに決める。
「じゃあ……しよっか」
そう言って、杏璃が飴玉の包装を解く。
そのまま取り出された真っ赤な飴玉を口に含んだ。
「……じゃあ、今度は私からするね」
そう宣言した私は、杏璃に一歩、詰める。
「んっ――」
目を閉じて、口づけ。ここからだ。
唇の柔らかい感触を感じつつ、舌を突き出す。舌が何かに触れた。飴玉と……杏璃の、舌。
「んぅっ……」
ぴく、と杏璃が小さく身体を震わせた。
飴の味はイチゴだろうか。
ちょっとすっぱさのある甘みと、杏璃の舌の独特な甘さが混じって、私の味覚を満たす。
ころころ、と飴玉が互いの口内で転がる。
「はぁっ……ちゅぅっ……」
「んっ……はぁっ……」
互いの吐息が混じって、溶け合う。
口の中で自分の舌が、飴玉と杏璃の舌を捉えようと、もどかしく動く。杏璃の舌の動きも同様だ。
「んっ……はぁっ」
杏璃の唇が、私の唇から少し離れる。ただし、舌は突き出したまま。
そのままゆっくりと、私の舌の周りを、突き出された杏璃の舌が這うように一周した。
その舌の動きに、飴玉が落ちないか心配になって、つい半目を開けてしまう。
「あっ……」
同じく、杏璃も半目を開けていた。
うっとりとしたような、そんな瞳で私を見つめていて。
「――――……」
その時の杏璃の顔が……まるで同じ年頃の女の子のものではない、ちょっと大人びたものに見える。それが凄く、魅力的に見えた。
そんな杏璃の、初めて見る表情に釘づけになっていると……脚がうずうずと震えてきた。
そのまま、互いに見つめ合って膝立ちになる。膝立ちになっても、互いに舌は離さない。
むしろ、もっと互いを求めるかのように抱きしめあった。
「ふぅっ……んっ……」
「あっ……」
身体の奥底が熱くなる。心臓の鼓動は激しさを増すばかり。互いの身体に、汗が滲んでいるのが分かる。
部屋にはクーラーがかかっているのに。
抱きしめている杏璃の体温が、熱でもあるのかと思う程に熱い。
「ちゅっ……んっ……」
無心で舌を動かし続ける。もっと、もっと。杏璃が欲しい。互いに汗だくでも……ぴったりとくっついていたい。
そんな独占欲にも似た感情が、私を突き動かしていく。
同じようにぴったりとくっついて離れない杏璃も同じ気持ちなのだろうか。
「んっ―――!」
身体の芯から熱くなって、何かが登り詰めてくる。
身体の中で、きゅうう、と絞られていくような感覚とも言えるそれは、不思議と不快な気分はしなかった。
「あっ……はぁっ……! あぁっ―――!」
登り詰めてくるような、絞られていくような感覚は……ついに、弾けた。一種の解放感を感じる。
より一層身体が電流を浴びたかのようにがくがくと震えだす。互いに耐え切れず、唇を離した。
「はぁっ……あっ……」
『おとなのキス』……正確に言えばその練習は終わっても、身体が小刻みに震える。
たらり、と。何かが口に伝うのを感じた。粘性の糸のような、唾液だ。それが私と杏璃の口の間を、橋のようにつないで垂れていた。
「……知ってる? 気持ちいいって感じてると、唾液がねばっこくなるんだって」
杏璃が飴玉を頬に詰めながら、そんな事を言ってくる。まるで餌を口に詰めたリスみたいで可愛い。
でも……そのほっぺとは裏腹に、杏璃の目は熱を帯びていた。
「あ、あんり……?」
「まだ飴は残ってるよ? 全部、溶けるまでやろ?」
まだ溶けきっていない飴を舌に乗せているのを見せ、そんな事を言ってきた。
未だ荒い息遣いのまま、杏璃が私に熱い視線を送り続ける。
「んっ……!」
そしてそのまま、杏璃が素早く私の唇を奪う。もう一度、舌と舌を絡ませる。
「んっ……ちゅうっ……」
もはやなすがままに、私の舌は弄ばれた。
「んうっ……あんっ……りぃっ……!」
杏璃に舌を弄ばれながら、私は思った。
(……私が弱っている所を見るのが、好きなんだ……)
現に、こうやって今私の舌を……『たのしそうに』弄んでいる。
恋人になってから、初めて知ったと思う。杏璃の『ドエス』な一面を。
結局、飴が溶けきるまで私達は『おとなのキス』を続けた。
いや……この場合、私は『続けさせられた』と言った方が正しいのか。
「んっ……はぁっ……ごちそうさま。
すっごくおいしかったよ。これからもたっくさん、キスしようね」寝ころんだ私の身体の上で、杏璃が満足そうに舌なめずりした。
「あ……はい……」
体力を吸い尽くされた私は、ぐでんと、虚無のような顔で私はその言葉に応えた。
『拝啓 おとうさん、おかあさん。
私、朝倉葉月は今日初めてキスをしました。
キスの相手は女の子で、ショートケーキの味やイチゴの味がしました。
それ自体はともかくとしてその……『おとなのキス』というものも同時に経験しまして、それはもう言葉では言い表せない体験でした。
そして一番の問題は……相手がなかなかなドエスであったことです。
私の恋人は、私が『おとなのキス』されて弱っているところを見るのが好きで、何度も執拗にキスしてきます。
これがまた続く事を考えると、私の身はもつのでしょうか』
そう、心の中で両親へ手紙をしたためつつ、私はぐったりと横になる事しか出来なかった。
その日の宿題は、一切手を付けられなかったという顛末である。
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