5章:薫風 第9話
酒宴は夜更けまえに終わり、腰越の親戚一同が千早家を辞して、また静けさが戻ってきたのだが、床へつく時刻になって部屋へ入っても、嵩利は眠れずにいた。そっと起きだして、廊下へ出ると、母の部屋にまだ灯りがついている。
「母上、もうお休みになられますか」
障子越しに声をかけると、遠慮しないでお入りなさい、と返ってくる。そっと中へ入って見れば、母は嵩利の着てきた軍服へ火熨斗を掛けていた。洋装に袖を通したこともないのに、綺麗に扱っている。小机のうえには、鷲頭の軍服が既に仕上がって、畳んで置いてある。
「あなたを鷲頭さんの養子に出したいって、お父様が仰ってましたよ。珍しく昔話をしてねえ」
「そんな話をしていたのですか」
「そうですよ。ほんとうにねえ、鷲頭さんのような立派な方の目に留まって」
多分、嵩利が従兄と外へ出ている間のことだろう。しかも鷲頭は、父の話を拒まなかったという。母は火熨斗を脇へ置いて、顔をあげる。傍に端座して驚いた顔をしている息子へ微笑みかけ、
「あなたさえよければ、お話を進めてもいいのですよ」
そう言って、鷲頭が言葉すくなに語ったことを思い出しでもしたのか、目を閉じて深く息をついた。母は、そうしながら、軍服の上着を畳んで小机へ置く。
海軍軍人がこの末っ子の天職であること、何よりひたむきに純粋に生きている嵩利を、鷲頭が愛していること、そういったものを、例の小倉の件と今回の帰省とで、目の当たりにし、両親は実感していた。
―翌朝。
生家の庭先へ見送りに出てきてくれた両親へ、凛々しい海軍少佐の身形で、嵩利は正しく挙手の礼をしてみせた。手をおろしたあと、いつものように笑顔をみせてから、庭先で待つ鷲頭と共に、艦への帰路についた。
前に言ったとおり、横須賀へ着くと、賑わう通りから離れたところへソッと足を踏み入れる。そこにはやはり、鷲頭好みの質素な目立たぬ洋風の家があり、中に入ると小奇麗に整っていた。
一日繰り上げて水いらずの時を得たというのに、鷲頭は黙りこくっている。気まずい沈黙というわけではなく、静けさに包まれて沈思しているといったもので、籐の椅子によったまま、小さな庭の草花を眺めている。
嵩利はそんな鷲頭の横顔を見つつ、部屋の隅にある本棚へ行って調べると、やはりここには何度か訪れているらしく、磐手の艦長室でいつも読んでいたような本ばかりが並んでいる。各地の港へゆくと、かならずと言っていいほどこういった家があった意味を、漸く悟る。
記紀に万葉集、李白の詩から始まって、儒教の四書、仏教に関する本まで揃っているが、およそ軍事と名のつくようなものは一切ない。嵩利が傍に居るようになるまで、鷲頭はひとり静かにここで何を思って過ごしていたのだろうか。
およそ自身のことは、訊かれない限り語らない。それも口は重くて聞きだせることは恐ろしく少ない。千早家でのやりとりでそれを目の当たりにして、嵩利は鷲頭のことを何ひとつ知らずにいたのだと、痛感した。
「春美さん」
うしろから近寄り、椅子に凭れる広い肩へ腕を回しかけて抱きつく。すこし尖った耳のふちへ唇を寄せて、啄ばむように食んで、切なく甘えるような声で囁く。
「何だ」
と、嵩利の顔も見ずに、ぶっきらぼうな口調で言う。嵩利がややもすれば、甘ったるい仕草で絡もうとするのを、腕を掴みとって阻止する。いつもの照れ隠しか、気羞かしさからなのか。
「ぼくを養子に貰って欲しい、と父から持ちかけられたのは、本当ですか?」
「うむ…」
声を改めて、問うてみると、鷲頭は少し困ったような顔で頷いた。ぼくは一向に構いません、むしろそうして頂きたいのですが、と嵩利が言うと、ウーン、と唸って天井を仰ぎ、ますます眉間を嶮しくする。快刀乱麻を断つ、といった剃刀で知られた鷲頭が、こんな風に頭を悩ませている図は、そうそう見られるものではない。
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