5章:薫風 第10話

 養子の件は、嵩利からそれ以上せっつかれるようなことはなかったが、鷲頭は相当に悩んでいた。三笠に乗り組み、艦上のひととなって三度目の洋上へ出て行ったが、その前に手紙を出した。


 嵩利を養嗣子にとることについて、まともに相談できる相手は数えるほどしか居ない。相談相手とは、現在、海軍兵学校校長の那智源吾中将、同校教頭の新見暢生少将である。


 「手前ェの嫁だろう、サッサと籍に入れっちまえば済む事じゃねェか」


 などと返事を寄越しそうだが、手紙を受け取った那智は思いのほか慎重だった。神妙な顔つきで手紙を読んでいる。三度ほど読み返したあと、新見へ手渡す。


 「鷲頭にも困ったもンだ。千早少佐なァ…、あんな別嬪を公に手許へ置いたら、馬鹿共に目ェつけられるのは明白じゃねェか」


 「校長…」


 余りに露骨な物言いに、新見は顔を顰めるが、事実その通りである。鷲頭が今度陸へ帰ってきたら、軍令部部長か横鎮の参謀長か、どの道栄転になることは必須で、そうなれば、艦隊勤務時にはなかった、色々と面倒な場所にも出入りせねばならない。


 「かと言って、あいつァ家族にはとことん恵まれてねェ。そう考えるとなぁ…ウーン…」


 と、悩みに悩んだ挙句、後見と保証人を那智と藤原とで引き受けるのはどうか、という旨をしたためて、艦隊を率いている三笠へ送った。


 洋上へ出た第一艦隊は、この頃最も充実していたと言っていいだろう。


 司令長官と参謀長、艦長と副長が逸材であった。礎石のように動じぬ、しかも理解の深い穏やかな人柄を持つ人物揃いで、乗組は気心知れた顔ぶればかり、という環境である。狭い軍艦生活にありがちな窮屈な空気はなく、各地の作業地で任務と訓練に励んでいた。


 新しい任務についた嵩利と鷲頭は、艦内で思いの外顔を合わせる機会が多かった。砲術長と参謀長の職にあるから、訓練後は自然と、報告などで嵩利が参謀長公室へ足を運ぶことが増える。むしろ、副官を務めていたころよりも、顔を合わせる時間は多くなった。


 相変わらず軍務については、淡々とした態度の参謀長で、嵩利も飄々としたところは変わらず、砲術長の職を全うしている。


 それと、艦長室での独りきりでとる食事の時間がなくなり、本音を言うと鷲頭はそれが一番喜ばしかったのである。司令長官を囲んで、幕僚揃って士官室で食事をし、食後の紅茶や珈琲を楽しみつつ、歓談の時間になる。こういうとき、偶々でも鷲頭と眼が合うと、嵩利はちらりと目許を笑ませる。いつもの屈託のないもので、鷲頭はほんの僅か眉間と口許を和らげてみせる。


 三笠が率いる艦隊はその雄姿を日本各地の海原にあらわしつつ、順調に任務に就いていた。その間に、鷲頭のもとには那智からの手紙が二度届いて、夜にもなると藤原司令長官のもとへ行って、相談を持ちかけていた。


 嵩利には一切、養子の件を進めていることは告げていない。


 だから、かれが夜のひと時に参謀長私室を訪ねてきても、“今夜は司令長官と話がある”と言って部屋を出て行くことを幾度もしていた。それを嵩利は別段怪しみもせず、ちんまりと長椅子へおとなしく座って、鷲頭が愛読している蔵書を手にとり、読み耽るというようなことをしていた。


 

 半年の任務のあと、夏休暇を得て別府湾へ停泊したとき、鷲頭は嵩利をつれて名湯を擁した街へゆき、宿ではなく、また隠れ家のような日本家屋へ滞在した。三日程はふたりきりで過ごしたが、そのあと中将の夏軍服すがたの藤原と那智がひょっこり訊ねてきた。


 玄関へ出迎えにきた嵩利を、ふたりは微笑ましそうにして見る。休暇だけあって嵩利は夏の白軍服姿ではなく、白い絣の単に、濃い灰の夏袴をつけていた。その姿がまるで素朴な書生といった風情で、普段の軍務に就いている時とはまるで違う。


 「邪魔するぜ。鷲頭は居ねェのかい」


 「つい先ほど、酒肴を調達してくるということで、出かけて行かれましたが…会われませんでしたか」


 「おゥ、すれ違いか」


 丁度日陰になっている縁側へ、無造作に腰をおろす那智。藤原は庭へ出て、濃い緑に生い茂った草花をしげしげと見てまわっている。嵩利が茶を淹れて持ってくるのを見ると、那智は眉を顰めた。


 「…なんだ、鷲頭の野郎は。そんな真似までさせてるのか?千早少佐。いくら給仕が居ねェからって、そこまでするこたァねえよ」


 と、いくらか憤慨した様子で言う。嵩利の性格から出ていることだけに、給仕をしているという意識はなく、何と言ってよいかわからずに、困った表情で首をかしげた。


 「千早くんの気遣いの細やかさから、意識せずにしていることだろう。まず頂こうじゃないか」


 庭からあがってきた藤原がとりなすように言って、茶碗をとる。甜茶に似た甘みのある、風味のよいもので、飲みやすい温かさと相まって実に美味であった。そうしてふたりが寛いでいる間に気配を察し、嵩利は機敏に立って出て行った。鷲頭が酒肴を見繕って戻ってきたのだ。


 「まったく一途だねェ」


 「うむ…、羨ましい限りだな」


 何気ない嵩利の挙動を見て、養子縁組の取り持ちを買って出たふたりは、顔を見合わせて頷いた。

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