5章:薫風 第8話

 あくる日の夜。鷲頭は千早家の親族に囲まれて、揃って膳をつきあわせて食事をし、嵩利の父が丹沢の銘酒をどこからか引っ張り出してきて、鷲頭に振る舞いながら、よもやまの話に花を咲かせていた。


 そのうち、鷲頭の郷里のはなしに移り、家族のはなしに移っていったが、そのとんでもない生い立ちには、千早の一族は目を丸くするほかなく、


 「いやはや。維新で親類縁者が離散して、幼少のころ知人を頼って養子に行かれた身であったとは。まったく言葉の継ぎようもないですな。まさに荒海を乗り越えて今こうしておられるが、家族が居らんというのは…」


 「余りにも不憫ですわねえ」


 「奥や、お前もそうおもうかね」


 「ええ、それはもう…」


 父をはじめとする、年長のおとなたちは、心底から憐む表情でいる。嵩利はこれまで、鷲頭から郷里のはなしも、家族のはなしも聞いたことがなかった。何か、そういったことを年齢が遥か下の嵩利から訊ねるのは、失礼におもえたから、ずっと遠慮していたのだ。それにしても、激動の時代を経たあとに生を享けた嵩利にとっては、衝撃的な話である。


 「あのあと、多くの藩士が乱を起こして討たれましたから。そういった流れに飲み込まれずに、養子へゆけて新たな時代を生き延びられただけで、良いと思っております」


 それは自虐でもなんでもない。実兄も、萩の乱で討ち取られたのだという。そうして散っていった血縁のなかで、鷲頭は生きている。昨日の友が今日の敵、というほどめまぐるしく情勢が変わっていた明治初年を、血と涙を見ずに切り抜けた者は殆どいない。鷲頭の人生観の一部が、垣間見えたような気がして、嵩利は畏怖をおぼえさえした。


 何となく重く静まった室内で、父はひとつ息を置いて姿勢を正し、鷲頭へ向き直る。


 「鷲頭殿、おこがましいことだが…」


 母と目配せをして頷きあい、にこりと笑んだまま言う父。端座したまま杯を置いて、鷲頭は次の言葉を待つ。


 「ここを―我が家だと、これからはそう思ってくれんかね。嵩利を弟のように可愛がって下すっておることだしのう。いや何…わしにも若い時分、同じように大事にして貰うた方がおったものよ」


 その方には養子に来いといわれたが、如何せん千早家の後継で、叶わずに終わりましたがなあ、と、にこにこしながら、父はつるりとそんなことを口に乗せた。


 「今すぐそのように思うのは無理でしょうが、考えておいて下され。鷲頭殿のような、お国の為に心身を費やしておられる方が、今や故郷も家族もなく、根無し草同然では、余りではないか」


 「そうですよ、いつでも遠慮せずに来て下さい」


 「その温かいご配慮、ありがたく頂戴致します」


 鷲頭は定住している土地、いわゆる自宅というものを持ったことがないという。海軍に籍を置いているから、鷲頭にとって家というのは艦であり、陸に抱く愛着というのは、恐らく他の士官たちとは全く違ったものなのだろう。例えば、あの丘の上での散歩である。


 ふと、それを思い返して、嵩利は涙が滲むのを堪えられなかった。父のとなりで心もち顔を伏せて、指さきで涙滴を払う。やがて座は穏やかな談笑の場に戻っていったが、嵩利はいたたまれなくなって―というよりも、半ば自己嫌悪に陥って―そっと席を辞した。去り際に見た鷲頭は、叔父をはじめとする男たちに囲まれて、言葉すくなに杯を交わしていた。


 腰越の親類はただの荒くれの漁師ではなく、もとを辿れば鎌倉時代の御家人の家柄である。その野武士然とした魂は確かに受け継がれていて、鷲頭の生き様はあきらかに彼らの琴線に触れたらしい。


 鷲頭とかれを囲む男たちの円座には、失われし中世の鎌倉御家人が尊んだ、言葉なき武士の絆のようなものが、確かに顕れているのを、感じずにはいられなかった。


 「タカちぃ、おれも酔い醒ましだ。な、ちょっと出よう」


 「ウン」


 さりげなく、従兄が縁側へ出てきて、逞しく陽灼けした腕を嵩利の肩へ回し掛けて、促す。ふたりは連れ立って庭先へ歩いていった。


 「おれさ、前に横須賀へ行ったとき、軍人のお偉いさんを見たことがあるんだ。何だか、よくわからねェけど鎮守府の前が賑わってたんで、覗いてみたンだ。もしかしたら、タカの艦が帰ってきたのかもな、と思ってさ。まァ、違ったんだけどな」


 従兄は縁台に腰掛けて、嵩利を隣に座らせながら、そう話を切り出した。何かむかつくものを吐き出すように続きを語る。


 「そこへよ、大層な黒塗りの車から降りてきたお偉いさんが来て、門前で大勢が出迎えてンだ。お大名気取りで、何だかやけに気障で威張っててよ。おれァ虫が好かなくて、タカちぃには悪ぃけど、海軍なんてのは、上に行くほど碌な奴が居ないんじゃねぇべかって、腹が立ってな」


 嵩利がますます悲しげな表情になるのを見て、従兄は慌てて言葉を継ぐ。


 「わ、馬鹿。おれァ話下手だからよ。タカの艦のことはちゃァんと知ってら。従姉ちゃんの旦那さん、新聞社行ってんべ。三日遅れだけどよ、おれたちみんな知ってるんだぜ」


 ヘヘン、と得意顔になって、従兄は嵩利たちの小倉での活躍ぶりを、まるでみてきたように仔細に語ってみせる。あれが新聞に載っていたなどとは、嵩利はおもってもみなかった。


「わざわざ、電話で報せてくれたから、あのときのことは新聞に載ってンのより知ってらァ」


 だからな、と従兄は前置いてから先の話を続けて、鷲頭とその従兄がみた“お偉いさん”とでは、格が違うのだと、まるで身内を褒めるような口ぶりである。


 「三十年ちょっと前によ、そんな斬った貼ったをやってたってのは、もう、おれたちにはわからねえよな。タカちぃよう、鷲頭さんのこと、なンにも知らなかったからって、落ち込んでるよりよ、ああいう生き方おれたちも見習わねえと」


 おれも、ああいう人がいるなら海軍行ってもよかったなあ、と従兄は縁台から立って、体を伸ばしながら言う。


 「見習うってもよ、タカ。お前ェは底なしに面倒見がよくて、やさしいだろ。しっかり鷲頭さんの傍にくっついて、支えてやりゃいいべ」


 「それで、いいのかなァ」


 「いいに決まってら。タカちぃはタカちぃだろ」


 あの大人たちの輪には、到底入れないかわりに、誰にも真似できない強みが嵩利にはある。従兄は幼い頃、何度も親に、嵩利が女ならば嫁に欲しかったと、事あるごとに言っていた。そのくらい昔から、かれの美点を見抜いていたから、迷わず、きっぱりと断言する。


 「な、気後れするンじゃねェよ」


 「ウン、ありがとう…」


 やっと、嵩利にいつもの笑顔が戻る。

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