3章:厳冬 第2話

 何の前置きもなく、いきなりの出入り禁止である。


 あまりに酷い―。と、おもってもひと言も返せぬまま、部屋から締め出されたかたちになって、嵩利は肩をおとして士官室へもどった。


 目に見えて意気消沈、朝を待ってガンルームに集った士官たちの中で、嵩利はひとり、そのような有様でいるから、ひどく目立つ。


 当然、勤務の時間になれば艦長と顔を合わせなければならない。憂いの浮いた顔などしたら、それこそ何を言い渡されるか。鷲頭のことだ、艦から放り出しさえしそうである。


 奇行こそあれども、嵩利は概ね好かれる性質である。気心知れた同期や、それに近い士官が心配して励ましにやってくる。朝食をとるころには、上官と対峙しても“勤務中の顔”を保てるところまで、何とか持って来ていた。


 そのころ艦長室では、従兵がいつものように鷲頭へ朝食を運んできていた。寝入ってしまったことをまだ愧じているのか、給仕をしながら、何か言いたげにしている。


 「あれは気にするな、昨日はよくやってくれた」


 食事が済んでから、茶を淹れている従兵をちら、と目をあげて見つつ、鷲頭はそれだけ言う。穏やかな声音に安心したのか、食器をさげて出てゆく際、多分に安堵を含んだ表情で一礼をしていった。


 軍規や不正におそろしく厳しい、と評判がたっていた艦長だけに、懲罰どころか進級停止も覚悟していた。それが、咎められるどころか労われ、一切何もなしである。


 このことはたちまち艦内―特に下士官、水兵の間に伝わり、驚嘆の声があがった。無愛想で冷たそうに見えて、実は部下思いの艦長なのでは、と何となく近寄りがたくて怖がっていた者たちも、従来の色眼鏡をすこしばかりずらして、鷲頭艦長をみてみようという気持ちになったらしい。


 そんな下士官たちの話は、やがて時をおかずしてガンルームにも届き、ことの真相を嵩利が知ったのは、昼になってからだった。かかわった者に訊いてみれば、艦長付の従兵は砲術学校出身で、機器類にも精しいため、昨日は機関の方へかりだされており、罐だの螺子だのと点検の手伝いをしていたというのだ。


 士官室での昼食後に、皆が寛いでいるなか、嵩利は顔から火が出そうなほどで、まさに、穴があったら入りたい、入りたいどころか穴を塞いで埋まりたい、という心境であった。


 とてもではないが、鷲頭に合わせる顔がない。だが午後は参謀長に付いて職務にあたることになっていて、その気になれば翌日まで会わぬままでいられるから、いっそ、そうしてしまおうときめた。


 心中で死ぬほど愧じいりつつも、おかげで何とか軍務をこなせたが、精神的に疲れきっており、夕食の味も定かでない。今日ばかりはいつもの健啖家が、鳴りをひそめた。


 士官室へ早々と引っ込んで寝台へ潜ったが、どうにも寝付けず、ユニホームへ着替えて、夜半前に甲板へ出ていった。大湊へ向かう艦は、潮に揺られてゆったりローリングしており、そとへ出るのには、すこし危険な感じがする。


 それでも嵩利は出ていった。冴え冴えとした晩秋の空には、星がかかっており、艦橋のうえでも砲塔のうえでもいい、空と海を近くで見たかったからだ。


 不意に―艦が反対舷へ傾いたとき、前甲板を波がざッと洗っていった。眼下にそれを見て嵩利はヒヤリとしつつ、とっさに索具と手すりにつかまって支える。もうすこし強く傾いていたら、危なかったかもしれない。


 海図室には、まだ二人の士官が詰めていて、そこへすこし顔をだしてから、艦橋へあがっていった。測距儀のまえに腰をおろすと、膝をかかえて暗い海と星空をながめる。故郷へ繋がるその光景に、ほんのすこし心が休まるような気がした。


 それに、こうして手の届かぬ広大な存在というのは、見ていると圧倒されるし、自身の矮小さがつくづく身にしみてくるものだ。今朝方にくだらぬ嫉妬にかられて、上官に叱られたことも、素直に深々と省みることができる。


 半刻を過ぎても降りてくるようすがないのを、海図室に居た士官が心配になって、ラッダーの中ほどまで、様子を見に足音を忍ばせて登ってきた。


 その気配はおろか、うしろから様子を見られているのにも気づかず、嵩利は愁いに沈んだ横顔を星あかりに晒している。士官は嵩利が艦長の副官で、磐手の“名士”であることも知っていた。


 だが、いまは名士ぶったところなど微塵もなく、その端整な横顔にどこかあやうさを感じて、何も声をかけずに、海図を巻いて急いで中甲板へ降りていった。


 ちょうど航海長は艦長の公室に招ばれて、寛ぎながら航海士からの報告を待っていた。候補生から少尉になりたての士官たちを鍛えるため、横須賀を出航した磐手だが、北方海域での警備が、その最初の任務となる。


 端然と報告をし終えた士官へ、ふたりの上官は何度かちいさく頷いてみせる。今回の新任少尉が、なかなか良い出だしだということを物語っていた。やがて航海長と共に、艦長公室を辞そうとしたときになって士官は、千早大尉の様子がおかしいのです、とそっと告げた。


 ―あの馬鹿者が。


 とっさにこみ上げたのは怒りで、ふたりが辞していったあと、俄かに心配になってきた。鷲頭は眉間を険しくして内心で吐き捨てたが、心配を押し隠して知らぬ顔をするつもりはなかった。


 波がたかくなり始めているときに、まだ甲板へあがったままというのは危険すぎる。どういうつもりで艦橋へ行ったのかわからないが、とにかく連れ戻さねば―。


 公室の扉を閉めて廊下を歩き出すと、少しさきのラッダーから靴音がきこえて、鷲頭は立ち止まって降りてくるのを待った。副官かとおもったが、先刻報告に来た士官と居た、もうひとりの航海士だろう。交替だったらしく、鷲頭を認めるなり、さっと挙手の礼をして、居住区へおりていった。


 上甲板へあがると、思いのほかうねりが強いのを感じる。が、舵のとり方は的確である。これ以上荒れたら、指示を出しにゆくべきだろうが、今はまだ心配ない。


 艦はかわらず大きく揺れている。向かって反対舷のほうに黒い人影がみえて、鷲頭はそちらへ回りこんだ。手すりへつかまりつつ歩を進めると、星あかりに浮かぶしなやかな体躯を認め、それが副官だとわかる。


 さすがに海で育っただけに、ちっとも危なっかしい足どりではなかったが、この揺れが何をもたらすかわからない。鷲頭は距離が詰まるのをもどかしく待ち、副官を後甲板の安全な場所へ引っぱりこむなり、きつく腕を掴んで詰め寄った。


 見上げてくる副官の眼には、反抗のいろも、鬱然としたいろもない。今朝あった傲慢さがすっかり消えている。いつもの、鷲頭が愛しているかれがそこにいた。それで、叱る気が失せた。かれはかれなりに、己を見つめる場所を求めたくて、海をながめに外へ出たに違いなかったからだ。


 「分かったか?」


 「はい」


 「よし、それなら出入りを許す」


 艦が揺れるにつれて、からだが傾ぐ。鷲頭は慣性にまかせる風を装い、揺れに乗じて副官の腰へ腕を回して抱きとめる。そのからだは、夜の潮風に晒されてすっかり冷え切っていた。

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