3章:厳冬 第1話
ひと月の長い休暇は、祭の余韻を引いて名残り惜しく続いたあと、終わりを告げた。
休暇中に鷲頭は副官へ―つまみ食いこそしたが、仕舞いまでは手をつけなかった。もちろん親友の加藤に招かれている手前もあった。
堂々と収穫をゆるされたものの、まだ熟れる前の果実を、喉が渇いたからといって捥ぎとって貪るのは、鷲頭の好みではない、というのがその真相である。
今度は横須賀へ繋がれている磐手の艦長として、再び艦上のひととなった鷲頭艦長の傍に、副官としてまた千早大尉が就いた。
先の日進でのふたりの連携が、どこかから海軍省の人事局へ届いたらしく、嵩利は異例の副官稼業三年目に突入した。
あの、“名士候補生”が意外にも、厳正極まりない艦長と折り合いがついていることに、人事局長の三上少将が手を叩いてよろこんだとか、そんなはなしである。
上役から見れば、体のいい厄介払いであったが、磐手の乗組の殆どがふたりを歓迎していた。
じぶんたちの艦が港へ着くときや、出航してゆくとき、まるで所作の整った貴婦人が、優雅に立ち居振る舞うそれとそっくりで、周囲は操艦のみごとさに唸るばかりであった。
この勤務の最中に鷲頭から、あの褒めているのか貶しているのかわからぬ、“神輿の鳳”の綽名がいつの間にか消えていた。
部下に任せきって、居るのか居ないのかわからぬ姿勢が、却って頼もしく、任されていると自覚した乗組が緊張感を保ちはじめたのも、この頃からだった。
ただ昼行灯をきめ込んでいるわけではなく、理屈に合わぬ意見や失態には、それこそ一分の容赦もしなかったし、いつもと変わりない姿勢でいる。
だが、副官には殊のほか厳しかった。軍務に就いているときは別人かとおもうほど、例のささやかな夜のひと時を除いては、ほんの僅かでも狎れさせていない。
それ以外は拍子抜けするほど寛容なところもあり、もっとも、それが原因で、千早大尉が艦長へ不関旗をあげることになる。
ある日のこと。
艦長付の従兵―ボーイが、他の用でかり出されて引っ張り回されたあと、夜になってから漸く戻ってきたことがあった。
リネンへ持ち込んだ洗い物などを済ませ、くたくたになりながらも、艦長私室へそれらをしまいに来た折、長椅子へもたれかかって、そのまま眠りこんでしまった。
就寝の時間を過ぎ、鷲頭が私室へ入ると、そうして眠っている従兵を目撃したわけだが、今日の働きぶりを知っているだけに、起こしもせず黙って抱きあげて、長椅子へ横たえさせる。
備えてある毛布を掛けて、従兵を朝までそこへ寝かせてやるつもりだったのだが、夜明け前に目を覚ましたかれは、憐れなほどに恐縮して艦長へあたまをさげ、飛ぶように部屋を出て行ってしまった。
その物音は静まり返った艦内に響いて、副官である嵩利の居る士官室の真上だけに、当然何事かと身支度をととのえて起き出してくる。
「何かありましたか、艦長」
扉を後ろ手に閉めて、畏まって慇懃に訊ねてくる。そんな副官へ、寝衣すがたのまま、半身を寝台のうえに起こしている鷲頭は、いつもの怖い顔をむけた。
嵩利は、ちらと長椅子へ目を遣り、それから再び上官を見つめた。鷲頭の表情に動揺したものは微塵もない。駆け去って行った人影が誰だったのか、それは分からなかったが…。
「誰か、ご一緒だったのですね」
毛布はまるで抜け殻のように、長椅子へ掛かっていた。その中へ手を差し入れて、副官の指に摘ままれて出てきたのは、従兵が被る水兵帽だった。
ぽん、と毛布のうえにそれを放ると、嵩利はうっすらと涙を滲ませた眼を伏せて、上官をそれきり見もしない。
艦内で閨を共にすることも、然るべき場所へしけこんでしまえば可能だったが、鷲頭は敢えて副官に対してそれをしなかった。それに、この私室へ夜に立ち入らせることも許さなかった。
まったく艦上のひととなってからの鷲頭は、禁欲の塊であったし、僅かな時間共に居るときでさえ、手にも触れないほどだった。
鷲頭にしてみれば、これも“教育”の一環であり、試行錯誤の日々で、また例のだんまりでそれらを練って、話そうともしないから、嵩利にわかる筈がない。
わからないなりに、公私の別をつけなければならない、と考えているのだろう、という上官の意図を汲んで、嵩利もそう努めてきただけに、裏切られたような気さえしてくる。
従兵が私室へ来ても、副官―それも艦長の寵愛を受けている―の嵩利が、公室止まりというのは、どういうつもりなのだろう。と、嫉妬のあまり、それしかあたまに浮かんでこなかった。
現実的な思考に加えて冷静であれ、と言われ続けている海軍士官にあるまじき浅薄さだが、この感情は今すぐに引っ込むような、生易しいものではなかった。
副官の様子を窺っていた鷲頭は、弁解も説明もするつもりはなく、また、そうすべき理由もなかった。何故なら、あの従兵にしたことは、いつかの遠洋航海訓練の際、少尉候補生たちをここへ招いて、励ましてやったことと、まったく同じだからだ。
「―分かるまで、夜訪ねてくることは許さん」
それだけ言って、ぎろりと副官を睨みつけた。
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