2章:夏祭 第6話

夜になって、別荘から海を眺めながら酒を酌み交わしているふたりは、腰越の港から沖に出てゆく船の灯りを見送っていた。まさかその船に、嵩利が乗っていることなど、知る由もない。


 しかし同じ“船乗り”としてふたりは感じ入るものがあった。こんな夜にちいさな船ひとつで、漁へ出かけてゆく海の民へ敬意を表し、海へむかって杯を掲げて飲み干した。


 早く食えと注意されたものは、あらかた腹におさまっていて、いまはつまみにと、しらすを干したのを網のうえで焙っているところだった。


 「お前の副官は、おもしろい奴だなあ」


 「そうだな」


 ああして、生き生きとしているすがたを見ると、ここに住む、かれを大事におもい、また大事にしているひとびとの面影までが浮かんでくる。


 「お上はそりゃァ大事さ。だが、こういう守り甲斐のある場所があるから、おれたちは戦えているのだとおもうぞ」


 と、段々と酔ってきた加藤が、論じ始める。こんなこたァ言わずもがな、だが言わずに居れん、と酔いも気持ち良く、畳のうえに転がってしまう。


 「おい、そげなところで眠ったら、風邪をひくぞ」


 「わかってる」


 「まったく、相変わらず世話の焼けるやつじゃのう、お前は―」


 不機嫌そうに言うのは口だけで、鷲頭はこの厄介な酔漢を介抱しにかかった。からだのしたへ腕を差しいれて、半身を起こさせる。と、不意に首へするりと腕が絡み、


「お前は相変わらず、優しいんだな」

 

 加藤の悪戯っぽく笑んだ顔が間近にある。耳もとへ唇を寄せられ、耳朶へかるく触れるのがわかる。


 「お、おい―」


 「春美…断言してやってもいいがな、そのぶっきらぼうな優しさ、チャンと理解しているのは、おそらくおれと、お前の副官だけだぞ」


 低く囁いてくる声に、からかいはない。


 「何だ、いきなり」


 「しらばっくれるな。お前あの副官にメーター上げてるだろうが。いい加減、そろそろ身持ちのかたい奴になれと言っているんだ」


 「―っ!まて、康幸ッ。それは…」


 「惚れてないと言うなら、春美、いっそおれのものになるか。あの大尉を選ぶなら、身を引くつもりでいたが、いつまでもフラフラしているお前が、放っておけないんだよ」


 ぐっと無理に抱きすくめて、溜めていたことばを吐き出すと、鷲頭を畳のうえに横倒しにして、組み敷いた。が、襲うつもりではないようだった。


 「大尉のときに、一回抱かせろって言って寝たよな。あれからおれ以外の男に、抱かれたことないんだろ?」


 「ああ…、抱かれるのはどうも趣味じゃないんでな」


 「嘘つけ、まんざらでもなかったくせに…。―春美、最後にもう一度だけ訊く。千早になら、お前をくれてやってもいいと本気でおもってる。あいつに惚れてるなら、おれにだけは素直に言え」


 ―くれてやる、ときたか。鷲頭は呆れるのと後ろめたさとで、複雑な気持ちになった。加藤はずっと、陰ながら支えてきてくれた。同期で同じ年齢だというのに、兄のようにおもうことさえあった。


 一度を抱いただけにしては、随分と焼きすぎる世話の度合いで、かれから想いを寄せられているというのは、うすうす気づいていた。


 気づいているが、どうしても向き合えない。鷲頭の触れたい“温もり”は、加藤ではなく―


 「すまん、康幸」


 「ヘッ、やっと言いやがったな」


 ぱっ、と加藤の体が翻って、もう畳へ腰を据えている。半身を起こすと、ひらけた視界に夜の海が広がった。漁火が、海に浮かぶ星のように瞬いている。


 「なあ…春美、ちょっと変なことを言うが、怒るなよ」


 「何だ」


 「千早くんのことさ。あいつ…傍目から見ても充分男らしい気骨の持ち主だが、心に関して言えば、たぶん―そこいらにいる生半可なネイビー・エスより、情が深いぜ。大袈裟かもしれんが、海より深いかもしれんな」


 こどもが喜ぶなら、母親は苦心を苦心とおもわず、平然としている。それに似ていると言うのだ。


 「ああ…、お前はいい譬えを言うな。海大に居たころ、そう言われれば、そんな風に感じたこともあったよ」


 「へぇ…そうか」


 ふたりは何事もなかったように、また並んで縁側へ腰を落ち着けた。そうして、静かな潮騒に耳をかたむけ、じっと漁火を見つめ続けた。

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