2章:夏祭 第5話
夏の足音と共に、嵩利は故郷へ帰ってきた。
鷲頭は加藤と同行して、坂の下にある別荘へ滞在している。江ノ島にはもう、耳を聾さんばかりの蝉の声が響いていたし、腰越の漁港は、しらすで干し場が埋め尽くされていた。強い陽光にまぶしく輝く青い海が長く続く砂浜に打ち寄せて、力強い波の音がきこえてくる。ここは、変わらずに嵩利を迎えてくれる。
「ただいま帰りましたァ」
のびのびとした声が軒先に響いて、途端に父が縁側へひょいと顔を覗かせた。夏羽織に着流しすがたという、涼しげなかっこうでいる。
「おぉい、タカが帰ってきたよ」
くちに手をあてて、中へ呼ばわっている。返事がないとみるや、煙草盆を蹴っ飛ばしそうな勢いで、脱兎のごとく引っ込んでいった。
嵩利は相変わらず、気軽な和服である。特に土産も持たず、ほぼ身ひとつでいつも帰っている。このほうが父も母も喜ぶし、嵩利も穏やかな気持ちで帰ってこられる。
「奥はチカと先刻から、うらの井戸へ西瓜やら野菜やら冷しに行っとるよ」
「西瓜ですか、いいなあ」
「はっはっは、好きなだけ食べなさい。三浦からたくさん送ってくれたのが、まだある」
父の顔は、まことに嬉しげである。つくづくと嵩利を見つめて、頷く。親の目からみればまだまだ、まるきりこどものような末っ子、とおもっていた。しかし、この二年のうちに息子はどこか逞しくなったようにも見受けられる。
「まだ、鷲頭殿にお仕えしているのか?」
「はい」
「今年は、こちらからお招きしたらどうだね」
と、父は案の定のことを言ってくる。嵩利が困った顔をしつつ、事情を説明すると、すこし寂しげに肩をおとしてしまった。
「それは仕方ないが、またゆっくりしていって欲しかったねえ。タカや、それならあの西瓜と酒をね、持って行って差し上げなさい」
父はさっそく、納屋から自転車をひっぱりだしてくる。なんでも腰越の親戚が贈ってきてくれたらしい。うしろへくくりつけた、蓋つきの篭へ西瓜を二つ、酒の瓶を三つ乗せる。
「ちょっと袴をつけてきます」
着流しで自転車に乗るのは、さすがにみっともないだろう。細身の袴をつけてくると、身軽にこぎ出してゆく。
「行ってきまァす」
「気をつけるんだよ」
庭先で見送って手を振る父のすがたが、妙にこどもっぽくみえて、微笑ましい。
あっという間に腰越にさしかかり、この乗り物を贈ってくれた礼を述べに親戚の軒先を訪ねると、たちまち居間へ引っぱり込まれる。夕飯にはすこし早いのに、干したしらすを混ぜ込んだ握りめしだの、鱚の天麩羅だのと勧められたうえに、一夜干しだのと、まだいろいろと持たされた。
「タカちい、今晩漁行っか?」
「え、また釣らしてくれンの?」
「波ィ静かだし、明け方まで沖出て、イカ釣んべ、イカ。食わしてやんなよ」
別れ際に従兄と急遽そんな話になり、嵩利はいちにもなく頷いた。昼間からだが空いていれば、上官ふたりへのもてなしには影響するまい。それにイカが釣れれば、活きのいいものを食べさせてあげられるというものだ。
坂の下まですぐだった。加藤が所有する別荘は、そこそこ瀟洒で、嫌味のない和洋折衷なつくりの平屋である。勝手口へまわりこむと、担ぎこむようにして、持ってきた土産を置いた。
「ちょっとこれから野暮用があるンで、すぐお暇します。また明日来ますから、あ、西瓜は今晩、井戸に入れとくといいですよ。櫃に入ってる握りめしは早く食ってください。その干ししらすは、炭火でちょっと焙って食うのが、おすすめです」
と、言いたいことだけ言って、ひょこっと一礼するなり、自転車に跨ってさっさと帰ってしまう。副官の後ろすがたを、鷲頭はめずらしく口許を綻ばせて見送った。
「オイ、この量は…ふたりで食えるのか…?」
「日持ちするものもあるだろう、大丈夫だ」
すっかりことばの調子まで“海の子”に戻っている千早大尉を、加藤は唖然としつつ見ていたが、その土産の多さにも驚いていた。
「どうも、かれらは、他所者はもてなすというのが流儀だそうだぞ。遠慮などしたら、がっかりさせてしまうからな」
酒の瓶をとりあげてみせ、これが旨いんだ、と嬉しげに言う。鷲頭が心底から寛いでいるのを見て、加藤もあれこれと悩むのをやめた。
ひとの好意は素直に受け取るべきだ。特に、こういった気持ちのいい人々からのものなら、尚更である。
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