2章:夏祭 第7話

―まだ晩酌しているのかナ


 釣竿を握りながら、嵩利は暗い海のうえから、彼方の陸―丘にある加藤の別荘の方角へ、ときおり首をかたむける。暗い夜に沈んでいる丘にはいくつか、灯りが瞬いている。


 江ノ島と腰越に伝わる、“御神渡り”の伝承を、船歌のようにして従兄と叔父とでうたいつつ、撒き餌を海面へ投げる。ぱあっと海蛍が光って散り、その瞬間はなんとも言えず、幻想的ですらある。


 「タカちぃ、まァた掛かったじゃんー。何杯よ」


 「ンー、たぶん六杯」


 「ちぇー、おれより釣ってやンの」


 「えへへ」


 無邪気に笑う従弟は、とてもではないが、優秀栄えある帝國海軍の将校にはみえない。腰越の親類にとって嵩利は、いつまでも“タカちぃ”なのだ。


 「あと半刻で夜が明けッから、港に帰ェんべ」


 『はあい』


 釣果を積んで“凱旋”すると、もう海の女たちは港の寄合い所で火を熾して待っていた。


 「風呂沸いてるから、早く入っといで」


 と、男衆は急きたてられて、大きな浴場へ浸かりにゆく。木戸を開け放すと、岩場のかげから江ノ島がみえた。


 「今日は朝靄がかかってねえな、からッとするかもしれんが、夕立ちが来るんじゃねえか」


 叔父が独りごちるように、天候を読んだ。さっぱりして出てくると、もうすっかり陽が昇っている。“おカミさん”たちの手で、釣ってきたものが悉く捌かれてゆく。


 漁にいった男は、たとえ嵩利であっても包丁を握らせてくれない。女たちの仕事だから、だまって見守るしかないのだ。


 「タカちぃ。いかめしも拵えてあげッから、もうちょっと待ってなよ」


 そう言って、すこし手間のかかるものまで作ってくれ、諸々持ち合わせて別荘へ向かったのは、朝と昼の中ほどを過ぎたころだった。



 「艦長ォー、お早うございまァす」


 眠っていないとは到底おもえぬ声で、庭先から快活な挨拶をして寄越す。縁側のある部屋で朝寝をしていた加藤は、元気のよい海の子の声に応えて、寝返りをうちつつ嗄れたような声をあげる。威厳のかけらもない間延びした調子であった。


 「おーィ、千早大尉。艦長はふたりいるぞ、どっちだ」


 「ア、そうでした」


 「―む。何だ、その仰々しい手提げ桶は」


 「朝食と昼食です」


 「そうか。また何か持ってきてくれたのか。こちらから碌に挨拶もせぬというのに、ありがたいことだ。そうだな、あとで礼に伺うとしよう」


 一方の鷲頭は、いつもと変わらぬようすでいる。涼しげな単に袴をつけたかっこうで、玄関まで出てくる。


 すッとさりげなく嵩利の手から桶を受け取って、眼で中へ入れ、と促す。嵩利はお邪魔します、と言ってあがり、居間の座卓へ置いた桶の蓋をひらいてみせた。


 そこには、アオリイカの刺身から、うにと混ぜた即席の塩辛、煮つけ、いかめしまで、二人でたらふく食べられるくらい入っている。


 「千早くんは、食べないのか?」


 「ウン、ぼくは釣っただけでもう、満腹です。―お茶淹れてきますね。あっ、ひどいな。こんな出し殻になってるじゃァないですか」


 間髪入れずに、急須を持って出ていってしまったのを見送り、加藤と揃って食べる手をとめた。


 「じゃあ…昨晩の漁火は、あの船にあいつが乗っていたのか」


 「そうだな、私は詳しくないが、イカ釣りというのは夜間行うそうだから、多分そうだろう」


 徹夜で釣りをして、これだけの料理まで拵えて来たとしたら、おそらく一睡もしていないということになる。


 「ほうじ茶のほうがさっぱりすると思うので、どうぞ。あれ…どうかしました?」


 戻ってきてふたりの箸が止まっているのを見ると、俄かに心配そうな顔になる。鷲頭が、―いわゆる、海より深い、母の愛。に似たそれを、ひしひしと感じた瞬間であった。


 「いや、何時ごろきみのご親戚に礼を言いに伺おうかと、話していただけだ。こんなに美味いものは、久しぶりだよ」


 「あァー、ぼくの親戚は多分、礼なんか言いにきたら逆に怒りますから。やめておいた方がいいです」


 座卓の向こうでにこにこしながら言って、ふたりが料理を平らげるのを嬉しそうに見守っている。嵩利は港でイカの炊き込みめしを、たらふく食ってきたから、実際満腹だった。



 「オイ、春美。お前の嫁をなんとかしろ」


 「ん、どうした」


 海の幸を堪能したあと。


 桶をきれいに洗って、縁側へ乾かすのに立てかけると、加藤が手招きして呼んでいる。何事かと戻ってみれば、陣取っていた席に副官のすがたがない。卓越しの畳のうえに落ちている手が見え、更に近寄って覗き込むと卓のむこうで、まるで猫のようにころりと横になっているのが見えた。


 「御馳走様ちゅうのを、まだきちんと言うちょらんのにのう」


 郷里ことばでぼやいて、眠ってしまっている副官を抱き上げた。手際よく、向かいの間に敷き布団と上掛けを出した加藤は、親友と、その腕のなかで眠る寵児とに、温かなまなざしを向けた。


 「ようし、嫁が起きたら、三人で西瓜を食うか」


 「そいつはいいな」


 「春美、ついでに添い寝でもしてやれよ。おれはすこし散歩をしてくる。近くに気になる社があってな、詣でてきたいんだ。帰りに何か土産を買ってくるから、留守番頼んだぞ」


 実際、社巡りは殆ど習慣と言っていいほど染み付いた、加藤の趣味だった。嫌味のない気の利かせ方をして、かれは何やら、手帳に記したものを確かめつつ、出かけていった。

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