1章:告白 第6話
“千早です、失礼します”、“どうぞ”の何時ものやりとりで艦長室へ入ったはいいが、昼間は何があった?と訊いてきたのに、今度は鷲頭から何ンにも尋ねてこない。
執務机のうえに指を組んだ手を置いて、じっと嵩利を睨みつけている。この沈黙は辛いが、内に篭めている言葉に出すのはもっと辛い。
そんな嵩利を見つめながら、鷲頭は冷静に思考を組み立てていた。まず、何もありませんと言ったときの動揺ぶりからして、おかしい。全く何もないというのは嘘だろう。副官の性格からしてありえないし、直の上官は自分なのだから、何か報告をするにも、“ショート・サーキット”には該当しない。
もしくは誰かから直訴を頼まれて、言うに言えず悩んでいるようにも見受けられない。副官は、曲がったことが何より嫌いなのだから、そもそもそんな頼みは引き受けまい。それにこの日進において、今そのような問題が浮上しているようにはおもえない。
と、こうして考えてみれば、あとの選択肢としては鷲頭に対する不満か不安か、本人の私的な悩みか、その位しか残らない。副官は端麗な顔に憂いを浮かべて、俯き加減にしている。何を抱えているのか、そんな状態ではこの先の物事を信頼して任せられなくなってしまう。
この艦に、何か重篤な問題が起きれば、すなわちそれらは乗組全員の命にさえ関わることにも、なりかねない。その原因になり得そうなことは、速やかに対処せねば。艦長としての責任は、まさにそこにある。
いくら好意を持って目をかけている士官であっても、このような不安定要素になってしまえば、切り捨てざるを得ない。それに、こういった兆しはよろしくない。精神的に病む者も居り、最悪の場合自殺する者もいるのだ。
普段から剛毅さを発揮しているとはいえ、かれは細やかで思いやりのある優しい性格である。鷲頭は、何よりも副官の心身を本気で案じていた。
「きみからも、信を置いてもらっていると、そう思いこんでいたが、どうやら自惚れが過ぎたか。このまま私の副官を務めているより、適所がもっと他にあるだろう。次の停泊地で、日本へ帰りなさい」
重々しく言うと、副官は弾かれたように顔をあげた。もうほとんど、泣き出しそうな表情をしている。
「嫌です」
かぶりを振って言うようすは、駄々をこねるこどもそっくりで、鷲頭は微かに嘆息する。
「ならば、悩みか不満かは知らないが、言ってみ給え。直にきみへ副官になってくれと、そう頼んだ私にすら言えぬのなら、この艦に置いておく訳にはいかないのだ」
「これだけは言えません」
「それなら降りることだな」
「嫌です」
これにはさすがに、鷲頭もあたまにきた。こめかみあたりが、ぴりっと痺れるのを感じつつ、席を立った。狭い部屋であるから、机を回りこめば副官との距離は殆どなくなる。
「舷から海へ叩き落とされたくなければ、言え」
胸倉を掴むような真似はしなかったが、頬が触れるほど顔を寄せて、やくざ並にドスを効かせた声で耳へ囁いた。艦長としての責務が優先とはいえ、私的な気持ちを言えば、副官を失いたくない。特にかれは失いたくなかった。
「艦長…っ」
胸元に、微かな潮の香のする副官のあたまが触れて、次いで背に回されたしなやかな腕が、鷲頭を強く抱きしめてくる。ネイビーブルーに包まれた、引き締まったからだが、ぴったりと重なり合う。
「ずっと―」
半ば胸に埋めたままでいた顔をすこしあげて、瞼を伏せたまま副官は震える声を発した。あまりに咄嗟のことで驚いたが、ひと呼吸置いて、半歩ばかりよろめいた体勢をもとに戻す。それから、副官のことばを待った。
「海大にいるころから、ずっと艦長が好きでした。夏に訪ねて来てくれたとき、あのときはただ、憧れていたひとの副官になれるって、それが嬉しかっただけでした。でも、今は違うんです。もっと傍に…ずっと居たい、少しの私的な時間くらいは、ぼくと居て欲しいってそう思っていました。ごめんなさいっ、こんなこと…」
告白しているうちに怖くなったのか、からだが震えてくるのが伝わってくる。それにつれて、抱きしめていた腕が緩み、身を離そうと片足をうしろへ引く。
「なるほどな、それは言えぬというのはもっともだ。私も驚いた…想像以上にきみから心を寄せられていることに戸惑っている。どうすべきか、とな」
すっと目を細めて、片腕を副官の腰へ回し、離れようとする温もりを留めた。まだ顔を合わせようとしていない、かれの端麗な顔を、武骨な指さきで顎の曲線を撫でながら、上向かせる。
「少しの私的な時間くらいは、と言ったが、きみと居てどのようして過ごせば良いのかな?」
低く囁きかけて、そっと唇を掠め盗った。訊くまでもない、意地悪な問いかけをすると、副官は真っ赤になって身じろいだ。
「あ、あの…」
「やはり釣りあげたのは、私のほうだったな」
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