1章:告白 第5話

相変わらず普段どおりの日々を送っていたが、不満もあった。嵩利が鷲頭のもとへ行って諸々の報告をしても、「そうか」とか「その通りやってくれ」とか、そんなことしか言われない。艦長公室へ居座れる口実を作ろうにも思いつくことがないから、副官になった途端に却って上官との距離が離れたようで、寂しさが増すばかりだった。


 鷲頭は、嵩利に細々としたことを一切任せきっているおかげで、各部署から上がってくる、少尉候補生の報告書に逐一目を通して、時には夕食が済んだあと、幾人かずつ候補生を艦長室へ招んで、励ましてやるようなこともしている。


 こうして若い者たちに心を砕ける時間がつくれるかどうかは、副官の良し悪しで決まると言っていい。


 特に荒天にも見舞われず、穏やかな航海であったから、少尉の卵たちは艦内生活にも大分慣れて、頼もしい顔つきになってゆくのを、鷲頭は内心の喜びとしていた。


 一方で、鷲頭は副官である嵩利も、常に注意深くみていた。どこか落ち着かなさそうにしていて、それを隠しているのがわかっていた。ある日、いつものように報告へ来るのを迎えて、数回黙って頷いたあと、差しだしてきた書類を受け取るついでに、手を掴みとって引きとめる。


 「何があった?」


 「いえ、何も…何もありません」


 言い淀んだ途端に、ごつい手に力がこめられ、痛いほど握りしめられる。嵩利はうろたえたが、上官の手を振り解くわけにもゆかず、かといって手を掴んで引き剥がすわけにもゆかず、空いた手をかれの袖に添えるにとどめた。


 「離してください、艦長。ぼくは―」


 猛禽のごとき目つきで睨みつけ、哀願するような調子で継ぐことばを遮った。かれを副官に迎えて、もうそろそろ三ヶ月になるというのに、ひとつの相談ごともしてこないのが気に掛かる。


 副官はそれほど不器用な性格ではないだろう、鷲頭自身とちがって。いったい、あの夏にみせた屈託のない顔はどこへ行ってしまったのか。問い質すことの要あり、と鷲頭は戸惑いの色をのせた副官の眼を鋭く見返した。


 「夜になったら、また来なさい」


 錆のある低い声でそう脅すように命じられ、嵩利は思わず顔を引き攣らせた。はいと返事をしないかぎり、上官は手を離してくれそうにない。


 「わ、わかりました」


 なぜ何も言わないのに、“抱えている”ことがわかったのだろう。しかしこんな我が侭な、稚拙すぎる不満など、鷲頭に言えるわけがない。ほんの少しの私的な時間くらいは、時々一緒に過ごしたい、などとは。


 「参ったナァ」


 くっきりと指のあとがついた手首をさすりつつ、中甲板を艦橋のほうへ歩いてゆく。もうそろそろ夕刻で、厨房から旨そうな甘煮の匂いが漂ってきた。


 「あー、…腹が減った…」


 夜をどう凌ぐか考えるも、思考は空腹に遮られる。こんなときでも嵩利の健啖は衰えない。食欲が脅かされるような状況など、めったにない。今回もそうで、まさに腹が減っては戦ができぬわけで。


 「まァ、怒られたら怒られたで、その時は諦めればいいべ」


 相手が、ごまかしの通用しない人物だというのは、嫌というほどわかっている。余りに狎れた態度は、上官に対する侮辱と取られても仕方のないことだが、鷲頭に対する想いは偽りのない気持ちなのだ。正直に告げるしかないだろう。そう言い聞かせて気持ちを落ち着かせる。


 嵩利には剛毅なところがある。所謂、物怖じという言葉を知らないような性格、といえばいいだろうか。しかし、時間が経つにつれて怖気づいてくる。ことがことだけに、侮辱と取られて処罰されるならそれでもいい。そうおもって胆を括ってはみたが、実際は括りきれていない。“それ”を言う勇気が全く湧いてこないのだ。


 夕食は士官室で、いつも以上に箸をすすめた。その小柄なからだのどこに入るのか、実によく食べた。殆ど自棄食いである。


 鷲頭の部屋へ行くまえに、上甲板に出て、艦首付近の砲塔のしたで座りこんだ。ここからだと海がよく見える。月明かりに照らされた波頭が淡く瞬くのが、とても美しい。潮の香は違うのに、故郷の浜が脳裏に鮮やかに浮かんでくる。


 あの時抱いた、鷲頭への気持ちは離れていないし、この航海のあいだに、大きく膨らんでいっている。きっと想いを告げたら、嫌われるかもしれない。否、嫌われるだろう。隠しとおして、嘘をついて嫌われるのとどちらがマシなのか、わからなくなる。


 懐中時計を見ると、夜九時をまわっている。これ以上待たせたらまずい、と重い腰をあげて中甲板へ降りて行った。

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