最後の送り火
井澤文明
第1話
気付いた時には、もう遅かった。
鷲津の汗ばんだ手は、女の子の細い首を絞めている。何とか息をしようと、女の子は必死になって鷲津のパーカーを引っ掻いたり、足をジタバタさせたりして、その姿が死にかけた蝉のように見えて、何故か笑いそうになる。
「苦しいよね、琴ちゃん」
鷲津は女の子の名前を呼んだ。もちろん、その子からの返事はなく、ただひたすら、か弱い両足でカーペットを蹴っている。
パキリ、と骨の折れる音が部屋に響いた。
「終わった?」
僕は問う。
「うん、終わった終わった」
鷲津は嬉しそうにそう言うと、大きく背伸びをした。
幼馴染で親友の鷲津は最近、人を殺すことに執心らしい。記念すべき五人目の被害者に選ばれたのは、近所の仲良しな小学生の女の子だった。
「生まれ変わったら、知っている人にも着いて行かないようにしようね」
鷲津は両目をギラギラと光らせ、口角を上げた。その姿は悪魔そのもので、僕はぶるりと身震いをする。
「人を殺したらどうなるのだろう」とか「死体はどういう風に変わっていくのかな」という純粋だが歪んだ好奇心に、あいつは囚われてしまっている。
「小さい女の子に、随分と意地悪なことを言うんだね」
僕は腹の底から湧き上がってくる笑いと畏怖の念を押さえ込んで呟いた。鷲津はけらけらと笑う。頰をほんのりと赤らめ、高揚した状態のまま。
だが窓際に生えた木に張り付く蝉の鳴き声に気付くと、綻んでいた顔を歪め、開けっぱなしにされた窓の外を見遣る。夏真っ盛りの今は、どこもかしこも蝉の大合唱が響き渡っていた。
「ああ、もうクソうるさいなぁ」
鷲津は着ていた安物のパーカーを荒々しく脱ぎ捨て、大きな音を立てながら窓を閉めた。
「そこまで苛立つことないだろ、ただの蝉なんだから。好きなようにさせたらいいだろ」
だがあいつの苛立ちはまだ治らなかったようで、荒々しく死んでしまった琴ちゃんの体を埋める準備を始めた。
台所から大きなゴミ袋を手に取り、いとも簡単に琴ちゃんを隠して、それを押入れから取り出した真っ赤なキャリーケースに放り込む。
流れるように行われた作業は、まるで職人のようだった。死体にも人権が存在する、偉大なる二十一世紀の日本で死体埋めの専門家だなんて、あまりにも非人道的すぎるけれど、倫理観が人とズレている鷲津にはよく似合っている。
「よっ、サイコパス! カッコいいぞ!」
僕は鷲津を囃立てる。でも鷲津は僕の言葉を無視して、下駄箱の上に置かれた熊のぬいぐるみを掴み取った。僕がその昔、鷲津に誕生日プレゼントとしてふざけて贈った物だ。今ではもう、鷲津が警察に捕まらないままでいるための、お守りのような物と化している。
「行くよ、白鳥」
「うん、分かった。いつもの場所でしょ?」
ボロアパートの一室から足を踏み出し、鷲津は琴ちゃん入りキャリーケースを転がす。先程までの苛立っていた様子は綺麗さっぱりなくなり、軽快な足取りで駐車場へと向かう。
陽はすでに傾き始めていて、宵の風が鷲津の髪を静かにたなびかせた。
「見事に染まってるな〜」
鷲津の細い瞳に、鮮やかな紅色がチラチラと煌く。僕は鷲津を真似て染めた、自分の長い赤髪を撫でた。
「そう? この色、結構気に入ってるんだよね」
鷲津は中古車のトランクに琴ちゃんを押し込み、熊のぬいぐるみをブンブン振り回す。
「おい、振り回すな。腕が千切れるだろ」
ぞんざいに扱っていたぬいぐるみを助手席に放り込み、鷲津は車のエンジンをかけた。僕も車に乗り込む。車の壊れかけたラジオから、陽気なジャズが流れ出した。
「ふはっ、楽しいなあ」
「ああ、そうだな」
死体を埋めに行く、という事実さえ除けば、楽しい時間だ。
走り始めた頃にはもう陽はいよいよ落ちていて、寂れた蛍光灯が夜の道を照らす。月はなかった。僕はぼんやりと、窓の外から見える夜空を見上げる。デネブ、アルタイル、ベガ。煌々と光り輝く星を見て、僕はぼんやりとした悲しみに飲み込まれた。
「なあ、鷲津。僕たち、来年もこうして一緒にいられるのかな? お前が警察に捕まっちゃったら、もう全部終わりだろ?」
返事は、ない。
僕が鷲津と出会って、もう十年が経とうとしている。自分の半身とも言える存在と別れることは、とてつもなく辛いもので、僕はそれをどうしても避けたかった。
パトライトの真っ赤な光が、鷲津の顔を染める。
「うーん、まあ、どうにかなるっしょ。大丈夫、大丈夫」
ポツリと呟かれた小さく短い言葉ではあったけれど、僕は言葉では言い表せない温かな安心感に包まれた。いつもと変わらない鷲津の素っ気ない態度は、変な慰めの言葉をかけられるよりも心に染みる。
「ああ、そうだな」
短くそう返して、僕はラジオから流れる曲に目的地に着くまで聞き入った。
「よーし、着いたぞー」
山に着くと、鷲津はぬいぐるみを拾い上げ、勢いよく車を飛び出す。エンジンは切らず、車のライトを使って周りを照らすらしい。
この山のあたり一帯には、鷲津の被害者ばかりが埋められていて、死体農場だと言っても過言ではないのに、不思議なことに誰もここの存在には気付いていない。
「お前、本当すごいよな」
僕は呟く。
いつの間にか手にしたスコップで、鷲津はせっせと穴を掘る。真っ赤なキャリーケースからは、琴ちゃんの青白く細い腕がだらりとはみ出していた。
何もすることのない僕は、鷲津を見つめながらラジオをただ聞いていた。ここへ来る途中に流れていた陽気なジャズは、いつの間にか勇ましい軍歌に変わっている。
「そうか、今日は終戦の日だっけ」
僕の呟きに、夏の蛍でさえ返事をしない。
穴を掘り終えた鷲津は、滝のような汗を流しながら、ずるりと琴ちゃんをキャリーケースから引きずり出した。
琴ちゃんの青白く凍って硬くなった体を包んでいた服は脱がされて、地面の上で悲しそうに散らばっていた。まるで琴ちゃんを悼んで泣いていたかのように、服は濡れて色が濃くなっている。殺される前に琴ちゃんがかいていた汗を吸って、色が変わってしまっただけなんだけど。
琴ちゃんの小さな体は、深い深い土の下に放り込まれる。もう動くことのない虚な瞳は、静かに夜空の星々を見つめていた。
琴ちゃんのためのレクイエムが、車のラジオから流れることはない。誰も小さな女の子が殺されてしまったことなんて知らずに、いつもと変わらない夏の夜を過ごしている。小さな骸の上に、無情にも土が覆い被さる。
鷲津は車の中からライターを取り、汗で濡れた琴ちゃんの服を燃やした。はじめは小さかった服の火は次第に強くなっていき、パチパチと音を立てる。
遠くで盆踊りが行われているようで、微かに太鼓の音が聞こえてきた。
「死体の王国とか作ったら面白そう!」
熊を抱き抱え、鷲津は笑みを浮かべながら燃える服を見下ろす。
「お前、マジでサイコパスだよな」
僕らはただじっと、揺れる炎を見つめた。去年の今頃は一緒に花火で遊んでいたというのに、えらい違いだ。琴ちゃんの真っ白なワンピースは真っ赤に燃えては、小さな灰となって風に乗って消えていく。朦々と立ち込める火の煙は、どこか送り火のようだった。
そろそろ帰らなければいけない。何故か、そんな衝動に駆られた。僕は地中深くに眠る可哀想な琴ちゃんに手を合わせ、ぬいぐるみの白鳥をいつものように振り回す鷲津に手を振る。
「バイバイ、鷲津。また今度な!」
遠くの盆踊りの太鼓に混じって、喧しくパトカーのサイレンが微かに耳に届いた。
最後の送り火 井澤文明 @neko_ramen
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