第3話「異世界への帰還。あるいは高飛車な彼女とキスの味について。」

元々幽霊部員気味だった部活には、退部届を出した。

僕は体内にわずかに宿った魔力を使い、周囲の記憶を徐々に消していった。

前世で得意だった魔法は、生まれ変わっても使えた。

魂が記憶しているということだろうか。


戦争ばかりしていた国での経験を活かし、日常生活では限りなく気配を消した。

夜ごと学校や役所に忍び込み、自分の個人情報の書類やファイルを削除した。

僕は可能な限り自分の痕跡を消し続け、「いてもいなくても同じ人間」となっていった。


共働きの両親の会社にも侵入し、長期の出張を割り当てた。

家族のアルバムは全て燃やした。

いつの間にか高校3年生になった。


涼子とは今年も同じクラスだが、今では疎遠になった。

もうほとんど話すこともない。

いつの間にか夏になっていた。


(これで良いんだ...)


僕は今日も授業をサボり、公園のベンチで横になっていた。

京都の夏は体にまとわりつくような暑さだが、木陰はまだ気持ちが良い。

どこの自販機もファンタグレープばかり置くが、ここのはちゃんとオレンジを置いている。それも、この公園を気に入っている理由の1つだった。


僕は1年前に発売されたレッド・ホット・チリ・ペッパーズのアルバム「アイム・ウィズ・ユー」を聴きながら、ぼんやり空を眺めていた。


新しいギタリストのジョシュのプレイは素晴らしかった。

しかし、何かが足りないような気がした。

いや、ジョシュではない。自分の心だろう、何かが足りないのは。


(これで良いんだ...)


そう自分に何度も言い聞かせたが、息苦しさと喉の渇きは取れなかった。

炎天下の中で僕は思わずもう1本、自販機でファンタオレンジを買った。


「相変わらずの子供舌やな」


後ろから声をかけられた。

同じクラスなのに、ひどく懐かしい声だと感じた。

天啓を受けたように心臓が高鳴るのを感じた。


振り向くと、袖をまくったカッターシャツの彼女がいた。

今日はベストも着ていない、涼しげな格好だ。


「邪魔、うちも買うんやけど」


僕はろくな返事もできず、おどおどと自販機を彼女に譲った。

彼女は宇宙の法則を指し示すが如く、コカコーラを買った。

振り向いた彼女と目が合って、僕は思わず「涼子」と呟いた。

1年前と全く変わらず、気が強く高飛車な目つきをしている彼女の名前を。


容赦のなかった日差しが雲の下に隠れた。

あたりは急に涼しくなった。


「何その顔、ほんまキショイで」

「このクソ暑い中、何してんの」

「うちの勝手やろ」


蝉たちが鳴き止んだ。

雲の色が濃くなり、にわか雨が来るとき特有の匂いが辺りに満ちた。


「涼子」


僕はもう一度、彼女の名前を呟いた。

気安く呼ぶなや、とでもいいたげな目線で睨まれた。


「僕な、もう行かなあかんねん」

「行くってどこに?」

「異世界。剣と魔法の国で、僕は勇者やねん」

「暑さで頭沸いてるやん、キモすぎ」

「ごめんな」

「その悲劇のヒーロー気取った顔やめぇや。吐き気するわ」

「ごめん」


水滴が顔に当たった気がした。

それが2回、3回と続き、やがて堰を切ったかのように雨が降ってきた。

土砂降りだった。


彼女は突然、持っていたコーラのペットボトルを思いっきり振った。

キャップを開け、それを僕の方に向けた。

ぷしゅっっと間抜けな音を立て、コーラが僕の顔面にぶっかけられた。


僕はコーラと雨で一気にずぶ濡れになってしまった。

そんな僕を見て涼子は心底楽しそうに、ゲラゲラと大笑いしている。

僕のカッターシャツはコーラ色に染まっていく。


「これで頭冷えるやろ!なぁ!頭冷えたァッ?」


そう叫ぶ彼女の姿がおかしくて、そしてなぜか無性にむかついた。

僕も同じように笑いながら、彼女の頭からドボドボとファンタオレンジをかけた。

彼女は逃げもせず、甘んじてそれを受け入れた。

白いカッターシャツがオレンジ色に染まり、黒い下着が透けて見えた。


世界で最も面白いものは?と聞かれたら、「今この瞬間」と答えるだろう。

僕らは大雨に打たれながら、自販機の全てのコカコーラとファンタオレンジを買った。


僕らは笑いながらそれを飲んだり、ボトルを振ったり、口に含んで吹き出して相手にかけたりした。疲れ果てるまで泥の中を転げ回り、ヘトヘトになるまで取っ組み合った。


どれくらい時間が経っただろう?

彼女が馬乗りになり、最後のコカコーラを僕に乱暴にかけた。

顔面への絨毯爆撃のように念入りに、最後の一滴まで振り絞って、かけた。


気づけば身体中が雨と泥とジュースにまみれていて、お互いにまともな人間には見えなかった。でもそんなことはどうでもよくて、腹の底から無限に笑いが湧いてきた。


そして僕の体の魔力が、唐突にこの瞬間が終わることを告げた。


「ごめんな、もう行かなあかんねん」

「異世界に?」

「うん」


彼女が馬乗りになったまま僕は息を吸い込んだ。

ずっと見ないようにしていた感情を今、言葉にするときだ。


「蜒輔?∝菅縺ョ縺薙→螂ス縺阪d縲ゅ⊇繧薙∪縺ォ諠壹l縺ヲ繧九〒縲」

「何それ?」

「僕の世界の言葉」

「どういう意味?」

「内緒」


そうして僕は、上に乗る彼女を抱き寄せてキスした。

コカコーラとファンタグレープ、酸性雨と泥が混ざったロクでもない味だった。

最後の思い出がこんなんなんも、僕と涼子らしいかもな。


「二度とそのシケたツラ見せんなよ」


そう言う涼子の表情は笑っているのか泣いているのかわからない。

ぼんやりと、髪から滴る水滴が綺麗だと思った。


肉体の感覚が徐々に消え、落ちていくような感覚を覚える。

あるいは、上昇しているのか。


僕はこうして異世界へと戻ったのだ。

剣と魔法のファンタジーの国に。

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