第12話 血で濡れた包丁。先輩は死に、僕も死にそうです。

 軋んだ音を立てて開いた扉の向こう。

 赤い月に似た瞳を怪しく輝かせたVtuber病依やまいココロさんが立っていました。


 配信で動いていたキャラクターそのままの格好をした少女。唯一、小柄な体格が、僕と同じぐらい身長が高くなっていることを除けば、画面からそのまま出てきたようです。


「あ、貴女は……」

「ようやくお会いできましたわねぇ、あなた様? うふふ、わたくしと一緒に愛し合いましょう……?」


 ひたり、ひたりと、病依さんが近付いてきます。

 ゆっくりと部屋の明かりに照らされて、鮮明になった彼女の姿を見て僕は目を剥きました。


(服に血が付いてる……ッ)


 ゴシックドレスの至る箇所に、赤い血が付着しています。まだ乾ききっておらず、病依さんが動く度に朱色の雫が小さなしぶきとなって床を汚す。

 右手には包丁が握られ、ぽたり、ぽたりと血液が滴り落ちていました。


 血で濡れていながら、怪我一つない病依さん。全て返り血なのだと理解した僕は、震えながら彼女に問い掛けます。


「シュルス……せん、ぱいは?」

「あぁ、あの売女ばいたですか? うふふ、ご安心ください」


 どこかの令嬢のように楚々と微笑む病依さんは言う。


「――ちゃぁあんと、殺しましたわぁ」

「ころ、し……?」


 一瞬、頭の中で理解するのを拒否しました。

 彼女がなにを言っているのか、まるでわかりませんでした。

 ニィイイッと鮮烈な笑顔が、彼女の顔に浮かび上がります。


「わたくしとあなた様の愛を妬み、愚かにも手を出そうとした害虫。駆除しないわけにはまいりませんもの。姿を現したところをグサリ。ふひっ、目を見開いて驚いた時の表情は忘れられませんわぁあああああああっ!! いひひひひひひひひ――――――ッ!?」


 口の端が裂けたかのように口角を吊り上げて、病依さんは転げるようにお腹を抱えて笑います。

 狂っている。

 僕には、彼女が悪魔のように映りました。絶対に関わってはいけなかった人。


(とにかく、逃げないと……!)


 カタカタと震える体を動かします。

 向かうのは窓。入り口は病依さんが立っていて通れません。この部屋は2階ですが、足から飛び降りれば死ぬことはないはずです。


「くふっ、くひっ、くひひひひひっ」


 未だわらい続ける病依さんの隙を突いて、飛び出そうと窓枠に手を掛けました。

 が――


「――どこにおいでになるおつもりかしら?」

「ひっ……!?」


 氷のように冷たい両手が僕の首を掴みました。

 ぐっ、ぐっ、と喉仏を潰すように力が込められて、呼吸のできない苦しみにか細く息を零します。


「かっ……ひゅっ、や……めっ」

「いひひひっ! 恥ずかしがってはいけませんわっ!!」


 振り回されるように投げられた僕は、無理矢理窓から引き剥がされ、ベッドに背をしたたかに打ち付けました。

 過呼吸のように短い間隔で空気を肺に送り込み、息を整えようと試みます。

 けれど、そのような時間もなく、首根っこを掴まれると引きずるようにしてベッドの上に放り投げられてしまいました。


「あぁ……この時をどれだけ待ち望んだことでしょう。一日千秋いちじつせんしゅうとはこのことですわぁ」


 僕の上に跨り、病依さんは顔を赤らめて熱い吐息を零します。

 その姿が一瞬、シュルス先輩と重なりました。けれども、抱く感情は異なり、彼女に向ける感情は嫌悪と恐怖しかありません。


 立ち上がろうとベッドに手を付くと、それに気が付いた病依さんが目を細めます。感情の消えた淀んだ瞳。メデューサに見つめられたかのように、僕の体は恐怖で委縮してしまいます。


「くふふ……そのようなおイタはいけませんわぁ。仕方ありませんわねぇ」


 そう言ってベットリと血で濡れた包丁を頭上に掲げました。


「悪さをするお手々はぁ、縫い付けてあげますわぁ!」


 病依さんへの恐怖で動けない僕は、もはや抵抗する力もありませんでした。弛緩しかんした体は、指先一つ、わずかばかりも動きません。

 目の横から涙が零れ落ちました。泣くことしかできない己が恨めしいです。


(シュルス先輩、申し訳ありません……)


 このような事件に巻き込んで、死なせてしまいました。

 謝っても済む問題ではありません。けれど、あの世で会うことがあれば、何度だって謝りましょう。

 本人は『失敗してしまったね』と快活に笑いそうですが。


(言いそうですね)


 くすり。

 命の危機だというのに、つい笑ってしまいました。

 そして、一つ。一緒に思い出されたことがあります。


『覚えておきたまえ。悪魔を退ける聖なる言葉だ』


 僕の体の上には、刃物を掲げて狂気に身を委ねて笑う悪魔がいました。


(まさか、そういう……?)


 導き出された答え。

 けれど、たったそれだけのことで病依さんが止まるとは到底思えません。


「まずは愛おしい右手から、真っ赤に彩ってあげますわ――ッ!!」


 迷っている時間はありません。

 病依さんが包丁を振り下ろそうとした刹那、僕はシュルス先輩にささやかれた名前を無我夢中で叫びました。


「止めてくださいっ、

 ――隠明寺おんみょうじ演莉えんりさん……ッ!?」


 迫る刃に怯え、力強く目を閉じました。

 間に合ったのでしょうか。手に痛みはありません。

 おそるおそる瞼を開けば、そこには顔を真っ白にし、精気のない病依さんがいました。


「どう……して、私の……いえ、ち、違いますっ。私は、わたくしは病依やまいココロで、演莉なんて人では……っ!?」


 憑き物が落ちたように、病依さん、いえ、隠明寺さんは包丁を手から滑り落とすと、恐怖で引き攣った顔を両手で覆いました。

 ぐしゃぐしゃに、引っ搔き回すように顔中を手で擦り、転がり落ちるようにベッドから倒れました。憑りついた悪魔が体の中で暴れているかのように、のた打ち回ります。


「……隠明寺さん?」

「あぁっ、あぁっ!? ちがっ、いやぁああああああああああぁぁあああああああああああっ!?!!」


 再び名前を呼ぶと、隠明寺さんは悲鳴を上げて部屋を飛び出しました。

 体をぶつけて傷付こうが意に介さず。

 血の痕跡だけを残し、彼女は嵐のように去っていってしまいました。

 体を起き上がらせた僕は、隠明寺さんがいなくなった入り口を呆然と見つめます。


「助かった……のでしょうか? ……はぁあ…………」


 よろよろとベッドに崩れ落ちます。

 ヤンデレ系Vtuberによる、血に濡れた愛憎劇はこうして幕を閉じたのでした。

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