第6話 腰が抜けて逃げられず、胸に短剣を突き立てられてしまいました。

 完全に彼女のことを忘れていました!

 昨日の今日だというのに、なんという間の抜けでしょうか。


 後悔しても後の祭り。短剣を握りしめた黒刃くろは血汐ちしおさんが、刻々と距離を詰めてきます。


「あわわ……っ」


 早く、早く逃げないと……!

 僕は慌てて逃げようとしましたが、焦ってしまい尻餅を付いてしまいます。じんじんと痛むお尻を気にしてはいられません。急いで立ち上がろうとして、サーッと血の気が引きました。

 腰が抜けてしまって、足に力が入らないのです。絶対絶命とは今この状況を指すために生まれた言葉だったのでしょうか。


「お、おお、落ち着いてください黒刃くろはさん……!?」

「うふふ。なにを言っているんですか? 私は冷静ですよ」


 穏やかに笑う黒刃さんは、言葉通り落ち着いていらっしゃいます。相変わらず短剣を握りしめたまま。冷静の意味を問いたい気分です。


「安心してください。難嬢なんじょう先輩を殺したら、私も後を追いかけます。……うふふ、天国で一緒に幸せに暮らしましょう?」

「現世で幸せに暮らしたいです!」

「痛みは一瞬です。少しチクッとするだけですから、怖がらないでください」


 そんな注射を刺すように言われても困ります。

 絶対にチクッではないです。グサッ、ドバッ、ボトボトボトッに決まっています。血生臭ささ100%。


 けれど、どれだけ嫌がったところで、僕には逃げる術がありません。相変わらず腰は抜けたままです。


 不意に、影がかかり視界が暗くなります。

 関節が錆びついたように、ぎこちなく顔を持ち上げれば、逆光を浴びた黒刃さんが僕を見下ろしていました。頬を吊り上げ「くひひ」と狂気染みた笑いに僕の恐怖はピークに達します。

 こ、殺される。殺されてしまいます……!


「た、助けてください……」

「愛してますよ、誘花君」


 ドスッ。

 振り下ろされた短剣が胸に刺さりました。チクリと棘が刺さるような感覚です。


(注射器の例えは間違ってなかったんですね……)


 死の間際、唯一冷静な部分がそんなどうでもいいことを考えて、僕は16年の人生を終えました。

 やり残したことばかりで、悔いの多い人生。来世があるのなら田舎で静かに暮らしたいです。


(意外と痛くないんですね)


 刺されたはずなのですが、不思議と痛みはありません。

 血が零れる感覚もなく、はて? と僕はぎゅっと瞑った真っ暗な視界の中で疑問を抱きます。


 ドクンッ、ドクンッと命の鼓動。

 僕の心臓はまだ動いています。

 どうなっているのか。恐る恐る瞼を開くと、

「うわっ!?」

 胸に短剣が刺さっていました。柄の付近まで深々とです。


 けれども、やはり血は一滴たりとも出ていません。


「ど、どうして……」

「玩具の短剣なのだから、当然だ」


 僕は目を剥きます。黒刃さんの口から、別人の声がしたからです。それも、聞き慣れた女性の声でした。

 勢い良く顔を上げると、立ち上がった黒刃さんが短剣の刃を自身の手の平に刺していました。

 カシュ、カシュと軽い音を立てて刃が引っ込み、手を離すとビヨンとバネの音と共に飛び出します。


 目を疑う僕に、くくっと押し殺したように黒刃さんは笑いました。

 そして、顔に手を掛けると、ビリビリッとなんの躊躇いもなく皮を剥いだのです。


「ひっ」


 痛い痛い痛い……っ!? いきなりなにをしてるんですか!?

 悲鳴を上げて驚く僕を他所に、剥いだ皮の下から現れたのは、傷一つない女性の顔でした。けれど、その顔は黒刃さんではありません。


(この人は……)


 パサリと滑り落ちた長い黒髪。その下からは絹糸のように細くしなやかな銀髪が姿を現しました。


「シュルス先輩……?」

「君は相変わらず、いじり甲斐のある良い反応をするね。誘花君?」


 明朗めいろうに笑う、見目麗しい女性。

 探女さぐめ探偵事務所に所属する唯一の探偵、探女さぐめシュルス先輩その人でした。

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