事故を呼ぶ街路樹 4
本当に若狭が電話に出るとは、松田は思っていなかった。
約束どおり午前九時半に若狭宅の電話を鳴らしながら、どうせ出ないから留守電になるだろう、その留守電もちゃんと聞いてくれればいいけど、なんて思っていた。
呼び出し音がとまって、もしもし、と若狭の声が聞こえたときには驚いた。
「ほんとに出た」
思わず言うと、電話の向こうの彼は「失礼だなあ」と言って笑っていた。
神田とは午前九時に連絡を取ることができた。日曜日で会社が休みということもあり、何時でも空いているということだった。
なるべく早く話を聞きに行きたいと思いもあり、午前十一時に自宅まで行くことにした。
若狭とは、その三十分前に最寄りのバス停付近で待ち合わせすることになった。
原付に乗った彼がやってきたのは、ほぼぴったりの時間だった。
「お、さすが刑事さん。常に時間前行動。真面目だねえ」
「お前だっていつも時間通りに来てるだろ」
「そりゃあ真面目人間ですから」
にやりと決め顔をしてくるが、時間に正確だからといって真面目かどうかは別問題だ。
「で、どの辺だって?」
「ここから歩いて十分くらいの距離みたいだけど、道わかりそうなら先に行っていいよ。地図見るか?」
すると若狭は原付の後ろを指さした。
「乗ってく?」
「あのな、俺は警察だぞ。法律違反するわけないだろ」
「冗談冗談。押して歩くよ」
「重いだろ。先に行けば?」
「平気。手伝ってもらうし」
誰に、と普通なら突っ込んでしまいそうなところだが、若狭のこういう言動に慣れている松田は気にせず歩き出した。
「今日もいい天気だねえ」
空を見上げてそんなことを言いながら、若狭は軽々と原付を押して歩いていた。
それどころかただ支えているだけにも見える彼の原付を、本当に目には見えない何かが手伝ってくれているのかは、松田にはわからない。
しかし本当にいい天気だ。最近にしてはぽかぽかと暖かくて、思わずあくびが出そうになる。
車通りのほとんどない、閑静な住宅街だった。道幅が狭く、曲がり角ばかりで分かりづらい道を地図で確認しながら歩いていると、松田の携帯電話が鳴った。
「はい、松田です」
電話の相手は佐々木だった。
「そうですか。ちょっと待ってください」
松田は一度携帯電話を耳から離して、松田を振り返った。
「例の銀杏の木でまた事故だそうだ。神田さんに連絡して時間をずらしてもらうか」
「いいでしょ。事故現場は行かなくたって」
「いや、それは」
「行ったからって何も解決しないし」
「そりゃそうかもしれないけど」
「刑事さんの都合もあるだろうから任せるけど、俺は神田って人の話を聞きにいったほうがよっぽどわかることがある気がするなぁ」
「都合っていうか、色々気になるんだよ。事故の状況とか怪我人とか」
「連絡してもらえば?」
ははは、と電話の向こうから佐々木の笑う声がした。
『あの若狭さんが、そんな饒舌に会話するなんてな』
スピーカーにしているわけではなかったが、松田と若狭の会話がばっちり聞こえていたらしい。ということは若狭にも電話の向こうの佐々木の声が聞こえているのかもしれなかったが、彼は我関せずな顔をしている。
『いいぜ、無理に来なくても。それより彼とうまくやってくれるほうが大事だからな。事故の詳細はあとで連絡してやるよ』
佐々木がそう言うので、松田は当初の予定通り若狭とともに神田の家へ向かうことにした。
実家暮らしの神田の家は、築三十年以上の一軒家だった。
インターホンを鳴らすと、玄関の引き戸を開けたのは神田本人だった。
「こんにちは、黄昏市警察署の松田です。神田洋平さんですね」
そろりと、神田が松田を見上げた。
「あの、相手の方が何か言ってきたりしたんですか」
不安そうに、彼がたずねた。ぶつけた車に乗っていた相手が何か訴えてきたのではと不安に思っていたようだった。
「いえいえ。もう一度だけ事故の件で確認したいことがあっただけです」
「はあ。なんでしょうか」
松田はとりあえず事故当日の話をはじめから聞きなおすつもりだったが、先に口を開いたのは若狭だった。
「銀杏並木のとこで最近事故が多いのって、知ってます?」
仕事と割り切れば、若狭は他人と会話できる。だが松田以外の警察官と市役所職員だけは、たとえ仕事だとしてもそれができない。
「みたいですね。新聞に出てました」
「中でも特定の一本の木にだけぶつかってるんですけど、それも知ってたりします?」
若狭の問いかけに神田の顔色が変わったのを、松田は見逃さなかった。
「その木について何か心当たりがあったら教えてもらえませんか。どんな些細なことでも結構ですから」
すかさずたずねた松田を、神田が見た。
彼はすがるような目をしていた。
「刑事さん、俺っ……もしかして俺のせいであの木が呪われてるんじゃないかって、実はずっと気になってて」
彼から思いがけない言葉が飛び出して、松田は思わず若狭と目を合わせた。
「こんな話、ばかばかしいって思われるって、ずっと言えなかったんですけど」
「どんな話でもいいですよ」
松田は優しく先をうながした。
「あの事故は、飛び出してきた猫を避けようとして隣車線の車にぶつかってしまったと、前に話しましたよね」
「ええ、そう聞いてます」
「その猫、どうやら避けきれず事故に巻き込んでしまったみたいで……せめて埋葬してあげようと思って埋めたのが、あの事故が起こってる木の下だったんです」
青い顔をしている神田の話に、ふうん、と若狭が呟いた。
「だから事故が起こったって聞くたびに、まさか俺のせいでみんな事故を起こしてるんじゃって。あの猫が俺を恨んでるんじゃないかって……」
松田はちらりと若狭を見たが、彼は神田の悩みには少しも興味を示さず、一人で考え事をしている。
「そんなことないですよ」
何も言わない彼の代わりに、松田が言った。
「だって神田さんには、きちんと供養しようという気持ちがあったじゃないですか。そういうのはちゃんと伝わっていると思いますよ」
話を聞かせてくれた礼を言って、松田は若狭とともに神田の家をあとにした。
門を出たところで一度振り返り、神田が家に入ったことを確認してから松田は彼にたずねた。
「どう思う?」
「なにが?」
「さっきの話、関係あると思うか?」
「あるかもね」
「じゃあ神田さんが言ってた猫が恨んでるっていうのも」
「あ、それはないない」
若狭がきっぱりと否定した。
「恨んでるとか憎んでるとか、悪意が原因で起こってることならもっと酷い事故が起こってるよ」
そういうものだろうか。
だがたしかに、今のところ事故による怪我人は軽傷がほとんどだし、死者も出ていない。
先ほどの事故についても佐々木からメールが届いていたが、とくに大きな被害は出ていないようだった。
「あの銀杏の木のところ、もう一度行ってみるか」
「行くなら夜だね。昼間じゃ目立つし」
「目立つ?」
「男二人が街路樹の根元にしゃがみ込んで掘ってたら目立つでしょ」
「掘るのか? 根元」
「掘らないの?」
神田の話を聞いて、例の銀杏の木の下を掘ってみる必要があるかもしれない、とは松田も思っていた。
だが猫を埋葬した場所を掘り返すとなると、やはり気が引ける。
「スコップ持ってる?」
若狭がたずねた。
「持ってたかな。普段使わないから」
「じゃ、俺持ってく。たしか倉庫にあったから。何時集合?」
「なんかえらくやる気だな」
彼が積極的に協力しようとするなんてめずらしい。
「昨日言ってたじゃん。その辺で呼ぶのは独り言みたいで嫌だって」
「言ったけど」
「それに、あんた疲れてるみたいだし。早く解決してゆっくり寝たいでしょ」
昨夜、遅くにコンビニで強盗未遂事件が起こって呼び出された。
若狭と別れてアパートに戻った二時間ほどあとのことだった。容疑者は捜査に当たっていた別の刑事によって確保されたが、ほとんど眠れないまま朝を迎えた。
おかげで寝不足だ。
しかも若狭にすっかり見抜かれていた。
「俺は何時でもいーよ。人通りの少ない時間でよろしく」
言いながら若狭がヘルメットを被って原付にまたがった。
「何時にするか決めるんじゃないのか」
「忙しいでしょ。合わせるよ」
「ここで決めたらその時間に行くから」
「大丈夫、大丈夫。今から行くからよろしく、とかその辺で言ってくれれば、ちゃんと俺も行くからさ。じゃ、あとでね」
「あ、おい」
呼び止める間もなく、若狭は原付で走ってしまった。
「……だからそれが嫌だって今言ったばっかだろ」
届かないとわかっていながら、松田は呟かずにはいられなかった。
※ ※ ※
銀杏並木の道沿いには、スーパーや店舗の入った小さなビル、郵便局などが並んでいる。
だが夜の十時を過ぎればそのほとんどが照明を落とし、街灯のみが照らす道となっていた。
人通りがほとんどないせいか、時折通る車のヘッドライトがひときわ明るく感じる。
「や、お疲れさん」
若狭は先に来ていて、例の銀杏の木のそばでしゃがみ込んでいた。
夜の十時に、と松田が伝えたとおりの時間に来たのだろう。伝えたといっても警察署の駐車場で車に乗る前に独り言を言っただけだが、いつものとおり若狭にはきちんと伝わっていた。
「ごめん、ちょっと遅れた」
「いいよ別に。それよりさ」
「いやよくない。仕事じゃなくて寝坊して遅れたんだ。ほんとごめん」
署での仕事をすませて、車に乗る前に「夜の十時に例の銀杏の木のところで」と独り言で若狭に伝えた。三十分ほど余裕を持った時間を伝えたのは、車の中で少し眠らないともたないと思ったからだ。
だが携帯電話でアラームをかけていたにも関わらず、寝坊してしまった。
「そんなの言わなきゃわかんないのに」
「そういう問題じゃないだろ」
「そう? ま、寝れてよかったじゃん」
若狭は優しいやつだ。
たしかに変わっているし誤解されやすい態度を取っているが、基本的には優しい男だと松田は思っている。
他の人にも、もっとそういう顔を見せればいいのに。
しかし当の本人にはその気はなさそうだ。
「はい、スコップ」
若狭が差し出してきたスコップを、松田は受け取った。彼の手にはスコップがもう一本握られている。
「二本持ってきたのか」
「倉庫には三本あったんだけど、そんなにいらないでしょ」
「二人しかいないしな」
松田は若狭とともに木の根元を掘り始めた。
ここに神田がひいてしまった猫が埋められているかもしれない。そう思うと少し躊躇してしまう松田だったが、若狭は気にもとめずにざくざくと掘り進めている。
「おい、あんまり雑に掘るなよ。そこに埋まってるかもしれないんだから」
「うん、この辺だよ。たぶんね」
若狭には確信があるようだった。わかっているから、遠慮なく掘ることができているのかもしれない。
何もわからない松田は、土の中の様子に注意しながらゆっくりと掘った。
そして見えてきたものに、ぎょっとして手が止まった。
白い毛の塊のようなものだった。
土の中に埋まっていたとは思えないほどに艶やかで、ふわふわとしていた。これが神田がひいてしまった猫の毛だろうか。
埋められてから一か月半は経っているはずなのに、まるで、まだ生きているかのようだ。
「よっと」
「ちょ、おいっ……」
止める間もなく、若狭がその白い毛の塊を掴んで引っ張り出した。
出てきたのはやはり猫だった。
くるっと体を丸めている状態で顔は見えなかったが、耳がぴくぴくっと動いたのがわかった。
「い、生きてる、のか?」
松田は呟きながら、一方で、そんなばかなと心の中で否定した。もし神田の車にひかれた時点で生きていたとしても、一か月半も土の中に埋められていたのだ。生きているはずがない。
だが猫は、ぱち、と目を開いた。
そのつぶらな丸い目と、松田ははっきりと目が合った。
「生きてるっていうか、こんなもんじゃ死んだりしないんだよ。ほら」
若狭が猫の前足の下をつかんでびろんと持ち上げると、二本の尻尾が垂れ下がった。
「これってもしかして、妖ってやつ?」
「そ。やっぱ刑事さんにも見えたんだね、尻尾が二本あるの」
「うん……え、なんで」
今まで妖なんて一度も見たことのない松田は戸惑うばかりだ。
「自らの姿が人の目に見えるようにできるだけの力が、この猫にはあるってだけの話だよ」
「つまりその猫は、けっこう強い妖、ってことか?」
「まあそんなとこ。車にぶつかって気を失ったのを、あの神田って人に死んだって勘違いされて埋められちゃったんだね」
若狭は猫をなでながら、体についている土をはらった。すると、ふいに猫が顔を上げて、若狭の腕からひょいと飛び下りた。
そして道路に下り立った途端、二本ある尻尾のうちの一本がすうっと消えた。
「尻尾が一本になった」
見ていた松田は思わずそうこぼした。
「一本しか見えないようにしたんでしょ」
「そんなことできるのか」
刑事課に所属して三か月、若狭とともに不思議な事件に関わってきたが、妖についてはまだまだ知らないことばかりだ。
尻尾が一本になり、普通の猫と見分けがつかなくなった妖の白猫は、ふいと背を向けると夜の道路を駆けだした。
松田は、思わずあとを追った。
「追いかけるの?」
松田とともに走りながら、若狭がたずねた。
「今回の連続事故、やっぱりあの猫が原因だよな」
「たぶんね。あの木の下に埋められちゃって、自力じゃ出られないから気づいてもらおうとしてたってとこでしょ」
「なんでそんなことをしたのか最後まで調べないとって思ったんだけど、追いかけたらまずいかな」
「いいんじゃない? 追いかけるだけなら」
白猫は住宅街を迷うことなく走っていく。そして入っていったのは、見知らぬ一軒家の庭だった。
松田と若狭は、生垣の隙間から中の様子をのぞいた。
にゃあ、と猫が鳴いた。
甘えるようなその声に飛び出してきたのは、一人の年老いた男だった。
「シロ! シロ、お前、帰ってきてくれたのか」
男の広げた両腕に白猫はひょいと飛び込むと、その胸元に顔をすりつけている。
「もうここには来ちゃくれないんじゃないかと……ありがとうな、シロ」
どうやら男は妖の白猫の飼い主というわけではないようだった。だが男は白猫が来るのを心待ちにしていて、白猫は見るからに幸せそうにしていた。
「あの猫、普通の猫のふりしてこの家に遊びに来てたんだな」
生垣から目を離して、松田が言った。
「ここに来る途中で車にひかれて埋められちゃったのかもね」
「この家に戻ってきたい一心だったってことか」
「かもね」
暗い夜道に立つ二人には、家の明かりに照らされた一人と一匹の姿がひときわ明るく感じられた。
「帰りたい場所があるっていうのは、いいもんだな」
車のとめてある銀杏並木への帰り道を歩きながら、松田が呟いた。
「あれ? ホームシックにでもなっちゃった?」
「なるか、そんなもん」
からかい混じりの若狭の言葉を、松田は一蹴した。
「俺には帰りたい家なんかないよ」
男で一つで育ててくれた父は、松田がまだ中学生の頃に亡くなってしまった。
引き取ってくれた叔父はそこそこ大きな企業を経営している人だった。とても優しい人で、夫婦ともどもよく面倒を見てくれたけれど、叔父が松田を跡取りにしたいと言い出したところで状況は変わった。
自分の息子を跡取りにしたい叔父の妻と、叔父が意見を戦わせるようになってしまった。
松田には、叔父の跡を継ごうなどという気はまるでなかった。
叔父たち家族がばらばらになってしまいそうで、その原因になってしまうのが恐くて家を出た。
だから松田にはもう帰る場所はない。
「そりゃよかった」
「よかった?」
「だって帰るとこがないってことは、この町からいなくなることがないってことでしょ?」
にっと笑った若狭に、松田は思わず言った。
「お前って、ほんと俺のこと好きなんだな」
「それ自分で言う?」
言い返されて少し恥ずかしくなった松田に、若狭があらためて言った。
「でも、うんそうだね。今のところあんた以外と仕事したいとはさらさら思わないし。もしあんたが転勤とかってなって出て行くことになったら、俺もついてっちゃおうかな」
「だめだろ。あやかし関連課課の仕事はお前にしかできないんだから」
「じゃあ転勤しないようによろしく」
「俺に言われてもな」
松田はまだこの町に来たばかりなので当分はないはずだが、それでも転勤の話はいつくるかわからない。
ずっとこの町にいられたらいいのにと、松田は素直にそう思った。
黄昏市役所あやかし関連課 佐倉華月 @kaduki
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