3
歩き続けた。どれほどか、を、俺はもう考えない。だから本当は歩いて、歩いて、歩いてはいても、それをし続けたとは感じていない。本当の本当は、こんなふうに一歩引いての意識すらもしないはずだ、と感じる。たぶん俺の魂は、今、死へ、その作法へ、ソフトランディングしている最中なのだ。歩いた。歩いている。歩いた、のか。歩いている、と気付く。歩く? 分からなくなる。動いている。木が見える。何かがいる。動いている、俺は――。
「見たい……」
声がした。その声で、眠りの直前に目が醒めたみたいに、意識がからだに帰ってくる。鬱蒼とした木々の葉が大きな蓋となって、くらぐらと俺たちを囲っている。山のなかにいるらしい。見たい……とまた声がする。俺のすぐ左隣で、もちもちの生き物が、涙を流して泣いている。
「……どうしたんだよ」
俺が声をかけると、生き物はブルブルと首を横に振って、ううぅー!と喚きだす。
「見たいぃ!」
「や……何が?」
「お、富士ぃ!」
もちもちの肉は引きちぎれんばかりに振り回されて、その肩に伸ばそうとした俺の手を撥ねのける。全身で地団駄を踏んで、見たい、見たい、と叫び続ける。大粒の涙が、厚いまぶたの隙間からこぼれ、ひとつ、またひとつと落ちていく。バランスを崩し背中から倒れても、生き物は暴れるのをやめなかった。落ちた枝や石で傷つきながら、ひどく聞き取りづらい泣き声で、うめく。日本に、日本に生まれてきた、からには――
「一度で、いいから……」
振り上げられた腕が勢い任せに地面を叩きつけて、そのまま、じっとかたまる。
「お富士さんが、みたい……」
そう言って、もちもちは泣きじゃくり始めてしまう。ふと見ると、夜行は俺ともちもちを置いて、もうずっと先を歩いている。
「いや、立てって。追いつかないと……」
「みたいぃ……」
「だから! 付いてけばいいだろ! もう、すぐ見れるって!」
「今みたい!」
「はあ?」
「いま、今ぁ! ……みたい」
もちもちの両手が顔を覆い、その身が丸く縮こまっていく。いま、いま、と泣く声を聞いていて、なぜだか俺は、しみ入るようにその気持ちが分かっていく。バカ野郎、と言ってもちもちの体を引っ張ると、その肉は見た目の印象よりもずっと軽く、ずるる、と動いた。もちもちは気に留める様子も見せず、ずっと同じように泣いている。もう一度、バカ野郎、とつぶやいて、もちもちの体を引き上げ、背負う。夜行はもう見えない。足音と、かすかに感じる生き物の気配を頼りに、その後を追う。
簡単に持ち上がったもちもちの体は、しかし相当に背負いづらかった。ぶくぶくと膨らんだ体積と、ぷるぷると曖昧な重心。ふとすると、どちらへでもひっくり返りそうになるそれを、何度も抱え直しながら歩いていく。重量以上の重さに、体力が削られている確かな実感があった。足下で枝が鳴り、石が転がる。みたい、と言って、こぼれそうに震える。わかったから、と、また持ち直す。
背中のあたりで、もう無いはずの筋肉が痛む。汗をかいている気さえする。生きていた頃にずっとあった倦怠感が、今また、俺の腰にのしかかっている。もうすぐ、いつか、将来――そんなものをずっと待っていた頃――待ちすぎて、待っていることすら忘れてしまっていた頃の、重みが。
よろけた拍子に、もちもちが落ちる。もちもちは相変わらず泣いている。その肌に刺さった枝を抜いてやってから、ふやけた体をまた背負う。もう、夜行の足音も聞こえない。
それでも、と一歩踏み出したところで、骨と骨の繋がりが消えて、俺の体はバラバラになる。頭から転げたもちもちは唐突に泣き止んで、そのうちに、すう、すう、と寝息を立て始める。俺は身を起こそうとするけれど、体はピクリとも動かない。体すべてが無くなったかのように、感覚が消えている。逆さになった虚の視界に、他人の骨みたいな、俺の骨が映り込む。
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