「点滴」「輪廻」「夜襲」
休み時間を終える鐘の音が教室に響き渡る。
周りの生徒はせっせかと机の中から教科書とノートを取り出し始めるが、僕はそれを突っ伏したまま微動だにせず眺めていた。
数学。それはこれから始まる僕が一番得意な科目で嫌いな授業だった。
好きな理由は、『0~9』なんていう10個しかない数字というものでこの世の全てを解き明かせるというシンプルさに尽きる。これ以上に美しく奥が深いものはないだろう。
嫌いな理由は、おっと、その原因が教室に入ってきた。
黒板の前に立つ男は、中肉中背の丸眼鏡をかけたおっさんで、いつもグレーのスーツに身をまとった数学教師、竹中であった。
彼は、僕がこの授業で教わることなどないくらい数学に造詣が深いことを知っていて、授業に参加させようとしてくる。それだけなら、まだ我慢すれば何とかなることなのだが、一つどうしても許せないことがあった。
それは、彼が作るテストには数学には全く関係ない問題が出題されることだ。
その問題には配当が1点配られているが、全体の点数を101点満点にすることで、解いても解かなくても成績には響かないという無意味なものとなっている。
僕の人生そのものとも言える数学において満点以外を取ることは、許されたものではなかった。
それを彼はあんなおふざけで愚弄するのだ。
なぜ数学のテストに流行りのアイドル曲の歌詞の一部を埋める問題が出るのだ。
なぜ、流行りの漫画の主人公のセリフを書かされるのだ。
なぜ、竹中の似顔絵を描かねばならんのだ。
一体全体意味不明であった。
しかし、彼の周りからの評価は意外にも高い。
確かに、授業はわかりやすいと思う。
ユーモアを多く交えることで普段は授業中に寝ている奴らにも興味を持たせることに成功しているし、実際この授業を受けた生徒の成績は伸びているという話をよく耳にする。
それでも僕は竹中が嫌いだ。
だが、今日の彼はどこか様子がおかしかった。
いつもはピンと伸びた背筋を丸め、周囲を見渡しながら何かにおびえているようだった。
そして、彼は教壇の前に立つと声を震わせながらこう言った。
「皆さん、僕はタイムリープしているみたいです」
クラスが一瞬で爆笑の渦に包まれる。
こんな分かりきった嘘にのれるなんて、所詮はただの中学二年生に過ぎないんだな。
僕は周囲を冷ややかな目で見つめながら、瞳を閉じて眠りにつこうとした。
その時だった。教室中に響き渡るような轟音が響く。
何事かと思い目を開けると、そこには教科書を教壇に強く打ち付けた竹中の姿があった。
先ほどとは打って変わりここは静寂に包まれ、皆目を丸くしていた。
「ああ、ごめんなさい…こんなはずでは…」
竹内は目を泳がせながら謝罪の言葉を口にした。
それから数十秒が経過したが、隣のクラスを教えている先生の声が漏れ聞こえる以外の音はなにも発せられることはない。
皆が皆、顔を向かい合わせて不思議そうな表情を浮かべている。
そんな沈黙を破ったのは、竹内自身であった。
「多感な中学生に、こんな話をするのは間違っているのはわかっています。それでも、もう貴方たち以外に話せる相手がいないのです。ほかの手段はもうダメでしたから…」
竹内の言葉には圧というか重みというか、真実だと信じないとならない支配感のようなものが宿っていた。
そして竹内はチョークを手に取り黒板に線を引き文字や図を形成していく。
ここだけを切り取ってみると普段の退屈な授業と変わらないが、その内容には雲泥の差があった。
「さて、では今、私におこっている現象を説明していきます」
そう言う竹内はまず、黒板にデカデカ書かれた『タイムリープ』の文字を指さした。
「タイムリープというのは、端的に言えば同一時間の繰り返し現象となります、今日が終わったのにまた今日が始まる。そんなのがずっと続いていくのをイメージしていただけると分かりやすいかと思います」
漫画やアニメでしか見たことのない現象そのものを真面目に解説する竹内を見た周囲の反応としては、今日は寝ても良い日かと高を括り机に突っ伏す奴がいたり、コソコソと近くの席の人と会話をしている奴らがいたり、竹内の姿をスマホで隠し撮りする奴がいたりとさまざまであったが、僕は気が付いたときには背筋を伸ばし目を輝かせてしまっていた。
「では次に、私がタイムリープするキッカケについてですが、これは不確定な要素が多くあり断言できたものではないということを先に言っておきます」
竹内はそういうと、バットのようなものを持った人の絵を指さした。
「本日22時14分、私は何者かに襲われます。それは自宅であっても、外であっても関係ありません。電車に乗っていても、車を運転していも、それは変わりませんでした」
そして、次に点滴のイラストを指さした。
「そして、夜襲を受けた後。次に気が付いたとき、私は病院にいます。そして、自身の身体に繋がった点滴を見た瞬間、時間が巻き戻り、今日の朝に戻るのです」
「夜襲を撃退することはできないんですか? 武器とかを準備しておいたりして」
クラス委員の三好が手を挙げて聞く。
「それはやってみたんですけど、こっちが武装すればするほど向こうも対抗の手段を携えてくるんです。それでも毎回なんとか相打ちまで持ち込んでいるんですが…。もしこれで負けることがあれば私は…」
竹中はそういうと俯いた。その先に繋がる言葉を想像するのは容易い。
クラスは再び重い空気に包まれた。
その後も、『警察に問い合わせる』『厳重に鍵をかけた密室に閉じこもる』『飛行機で国外まで逃げる』などなど様々な案や質問が出たが、どれも試したものばかりだったらしく、状況を打開する道は拓けなかった。
そして、そのまま学校のチャイムが残酷にも教室内に鳴り響いた。
竹内は、話を聞いてもらえただけで気が楽になったよと言い、笑顔を無理に作って教室から出ていった。
その後も教室はざわめき続け、謎の熱のようなものに浮かされていた。
しかし、そんな熱は長くは続かない。
次の授業後の休み時間になると竹内の話をするものは半数以下になり、放課後には一人も彼のことを気にしてはいない様子だった。
熱しやすく冷めやすい国民性に嫌気がさしたのはよくあることだが、ここまで嫌悪感が沸いたのは初めてだった。
いや、僕が彼の嘘に浮かされているだけかもしれない。
真実を確かめねば。
僕は、日が暮れるまで学校の裏口付近に身を隠し竹中を待つことにした。
部活帰りの生徒もいなくなった頃、ようやく竹内は姿を見せた。
彼は未だ暗い目をしており、仕切りに周囲を見渡し警戒しているようだった。
ここまでくると、彼がタイムリープしているというのは、やはり嘘ではないのではないか。
彼は徒歩で通勤しているらしく、追跡するのは容易であった。
スマホで時間を確認する。画面には『22:00』と表示されていた。
竹中はどこから敵が現れても対処できるようにか、開けた公園に進んでいった。
僕は草陰に身を隠し、息をひそめた。
公園には、僕と竹内以外の人影は見当たらなかった。
時間を見ると22時10分になっていた。
未だに人は現れない。竹中は公園の中心で座禅を組んでいた。
その後も、何もないままただただ時間だけが過ぎていく。
22時11分になっても、22時12分になっても、22時13分になっても何も起きない。
彼の話は嘘だったのか。
久々に熱を持った僕の身体が徐々に冷めていくのが分かる。
今日はもう帰ろう。
そう思い、立ち上がろうと足に力を入れる。
しかし、僕の身体は一向に動かなかった。
おかしい。何度力を込めても僕の身体は微動だにしない。
まるで何かに体を乗っ取られてしまったようだ。
その時、視線の先、公園の中央からアラーム音が鳴り響いた。
手元のスマホには『22:14』と表示されていた。
僕の身体に再び熱が入り始める。腕が足が体が、自分の意思とは関係なく動き始める。
近場に落ちていた木の棒をつかみ、僕の身体は竹中の方へと駆け出した。
「ひとつ、言ってなかったことがあるのですが」
竹中は背後に迫る僕を見ずに喋り始めた。
「毎回襲ってくる相手は異なりまして、それは酔っぱらったサラリーマンであったり、正気を失った妻であったりしたのですが、それには1つ共通することがありました」
僕の身体は木の棒を高く振り上げ、竹内の頭を目がけて精一杯叩きつける。
「それは、一番近くにいる人が対象となるのです」
竹内は座禅を組んだまま、ひらりと木の棒を躱すと、ゆっくりと立ち上がり振り返った。
「流石に見ず知らずの子供を暴行する訳にはいきませんから、ちょっと痛いかもですが、我慢してくださいね」
竹内はそう言うと、目にもとまらぬ速さで僕の身体に拳を叩き込んだ。
そう言えば過去に空手の黒帯を持っていると授業で言っていたような気がする。
そんなことを思い出しながら僕の身体は数メートル吹き飛ばされ、先ほどまで隠れていた茂みに背中を食い込ませた。
「ごめんなさいね、悪い大人で」
竹内は、どこか救われたような笑みを浮かべていた。
やっぱり俺はこいつの事が大っ嫌いだ。
学校の誰よりも頭がいいくせにひょうきんなキャラクターを演じているところだったり、一人でも生きていけるのに無理してまで周りを巻き込んでいるところだったりもそうだが、何より、本心を誰にも明かさないところが何より嫌いだ。
助けてと言いながら、自分が助かるための舞台装置を作る巧妙なこいつの手際には、正直惚れ惚れする。しかし、それならそうと最初からそう言えば良いのに。
こいつはそうはしない、なぜなら、こいつ自身もそうした方が劇的で綺麗だと思っているからだ。
結局こいつはタイムリープという現象に巻き込まれておきながら、この状況を楽しんでいるんだ。
僕の身体が茂みからひとりでに抜け出し、再度竹内に向かって歩き始める。
視線の先には中国拳法のような構えをした男がニヤつきながら立っていた。
ガンッ!
不意に公園に鈍い衝撃音が鳴り響いた。
「あれ…?」
竹内はそういいながら地面に倒れこんだ。
そこには、太い木の棒を手に持った三好の姿があった。
「流石学級委員長、まじめですね…はははっ…」
竹内はそう呟くと静かに瞳を閉じた。
「ざまあみやがれ」
僕は操られることなく本心からそう言うと、持っていた木の棒を担ぎ竹内の方へと歩き始めた。
夜はまだまだ始まったばかりだ。
意識が戻る。
瞼を開けずとも、独特な匂いと、定期的になる電子音からここが病院であることを察した。
「はぁ~二人は聞いてませんよ…次はどうしましょうか…」
男はそういうと目を開き、自身の身体に刺さる点滴を見る。
その時、彼は心の底から笑みを浮かべていた。
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