「私」という私(3)


 机の引き出しにぎゅうぎゅうに詰め込まれていたものは、買った覚えのない洋服や靴の領収書、日雇いのバイトの私名義の給与明細書、言ったことのない場所の観光パンフレットや知らない人たちと楽し気に写る私の写真など、後から後から出てきます。

 どれも記憶にありません。

 底の方に埋もれていた便箋を引っ張り出してみたら、ページが乱雑に破かれています。

 そして、私の過去の日記帳に乱雑に破かれた便箋が挟まっているのが見えます。

 恐る恐る便箋を取ると、そこには私の字で「あまねさん」の言葉が綴られていました。


『 あーやだやだ、何が「おばあちゃん、聞いてください」よ。


 この人から得るものなんて何一つ無いんじゃない?

 ずーっと家の中にいて、せっまい世界で満足して。

 おばあさんに褒められるように行動して、おばあさんの目の届く範囲で生きるなんて、まるでおばあさんのコピーじゃないの。自分ってものがなくって、気持ち悪い。

 それで本当に生きてるって言えるのかしらね。

 人間自立して生活できてなんぼでしょ?

 私はこんな生き方はしない。

 生きているのに死んでるみたいなこんな生活、絶対しないわ。

 本当に腹が立つ人ね。

 何が腹が立つって、この人は私の知らない17年間を全部持っているってこと。

 日記なんて漁ったところで結局同じようになんてできやしない、家のことをする能力とか、経験値とか、そういうの。

 私にないのはそれだけなんだもの。

 お金を稼げても、知らない人と仲良くできても、綺麗だねって褒められても、好きな人にお味噌汁の一つもうまく作ってあげられないって悔しい気持ち、あなたに分かる?

 私にはできるはずなのに、うまくいかなくて、覚えている味にならないの。

 せっかく一緒に生きようって、結婚しようって言ってくれたあの人をがっかりさせたくないのに。

 

 もういい、できないならできないで仕方ない。

 私はこれからいくらでも時間があるんだから、やればできるようになるはずよ。

 座って何もしないで死んでいくあんたとは違うの。

 私は自分の力で立って、自分の足で歩いて、好平と幸せになってやるんだから。

 あんたはそこから指くわえてみてなさい。

 

                             あまね     』



 初めて好平さんの家に行った日、普段料理をしない好平さんの家に、なぜ使いかけの味噌と乾燥わかめがあったのか、それがようやくわかりました。

 あれは、あまねさんが好平さんのために作ろうとしたお味噌汁の材料だったんです。


 私は、いつの間にか便箋を握り締めていました。


 ―――なによ。おばあちゃんがどんな人か、知りもしないくせに。

 ―――好平さんに満足なお食事をさせてあげられなかったくせに。

 ―――好平さんにお仕事以外の苦労を沢山させてたくせに。


 あまねさんの言いようにひどく腹が立って、気が付けば悔し泣きをしてしまいました。

 私は好平さんに愛されていたあまねさんがうらやましくてしょうがなかったんです。

 でもあまねさんから見たら、家事ができる、好平さんを支えられる技術のある私のことがうらやましくてしょうがなかったのでしょう。

 それもこれも、結局は全部「私」一人のことなのです。

 私が私をうらやんでいた。つまりは独り相撲だったわけです。

 なんて馬鹿馬鹿しいんでしょう。


 肩で息をして、呼吸を整えて、垂れてきた鼻水をティッシュペーパーでチンとかんで、屑籠に放り投げたら端にあたってハズレました。

 ため息一つでティッシュペーパーを拾ってちゃんと屑籠に入れ、お台所に立ちます。


「まずは、ごはん、たべる」


 薄く開けたお台所の格子窓、その向こうの夜空に光る一番星を見上げながら、私は前掛けの紐を後ろ手でぎゅっと結びました。


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