「私」という私(4)

「ただいま」


 念のため声をかけて帰宅した我が家は、予想通り真っ暗でシンとしていた。

 明かりがついていて出迎えてくれる人がいて、通勤カバンを受け取りながら「おかえりなさい」と笑顔で言ってくれる。

 そんな嬉しい帰宅ができたのは、もう三週間も前のことになってしまった。

 ため息をつきながら通勤カバンを北の部屋に置き、上着とネクタイを脱ぎ捨てて風呂場に足を向けた。


 梅雨は大嫌いだ。

 まとわりつく湿気で体が重くなるし、思考速度は遅くなる。

 布団は重いし、シーツがべたべたと肌にまとわりつく感じが寝苦しい。

 背広の上着だって湿って重いし、歳を取ったせいかじっとりとかく汗が臭う、気がする。

 胃が重くなって、食欲が失せてくる。

 一人っきりの家に帰って水を浴びて、のどを通るのは缶ビールだけ。

 髪をタオルで拭きながら冷えた缶をあおり、わかってはいるけど冷蔵庫の中をチェックして、がらんどうの中身に悲しくなる。

 家を出る前に用意していたのだろう。唯子が作り置きしてくれていた総菜はとっくに食べきってしまっていて、もう「食べたい」と思うものが何もなかった。

 スーパーを覗いても、総菜屋に立ち寄っても手が出ない。

 食い物にこだわりがあるほうじゃなかったのに「唯子の味じゃない」と思うと、食べるために労力を払う価値を感じなかった。

 だから晩飯はビールだけ、朝の出勤時に必要に迫られてコンビニでコーヒーとパンを買って口に入れる、なんて、一番食べない日でそんな状態になっていた。


 しょうがないから缶ビールをもう一本開けて、いつものようにソファに身を投げ出す。

 明かりをつけないリビングのローテーブルにほの白く浮かび上がるのは、先日届いた唯子からの手紙だった。

 もう何度も読み返したそれを手に取って柔らかな唯子の筆跡を目で辿る。


 『好平さん、ご迷惑おかけしています』


 そんな書き出しで始まる唯子の手紙は、俺の後悔を吹き飛ばしてくれるものだった。

 あまねは、事故にあったあの日よりも以前に実家に帰っていたらしい。

 そこで自分自身と向き合い悩んだ挙句に「できない自分を受け入れて、前向きに幸せになろう」と決意して実家を出たようだ。

 そしてあの日、視覚障がい者の女性を助けるために事故にあってしまった。

 後日駅前のデイサービスにその女性を訪ねて話を聞いたら、確かに唯子の伝えてきた通りだった。


 あまねは自殺なんかしていなかった。

 それどころか、人助けをした勇敢な人だった。

 自分に負けずに、俺と一緒に生きていこうと帰ってくる途中だったんだ。

 俺はあまねに捨てられたんじゃない、愛されていたんだ。


 それを知って、俺は背負っていた大きな荷物をドッと下ろしたような気になった。


 あまねのことに引き換え、唯子自身について書かれていたのはほんの数行で。


 『もう少し実家にいさせてください。

  どうしても、やりたいことがあるのです。

  わがまま言ってすみません。 

                   唯子 』


 そこまで読み切って、便箋をはらりと顔に伏せる。

 はっきり言って、つらい。

 唯子が家を出てからもう三週間たっている。

 「もう少し」ってどのくらい?

 俺は後どれだけ待てばいい?

 今までほとんど自己主張をしてこなかった唯子の「やりたいこと」を尊重したいのはやまやまだけど、それって、帰ってきたらできない事?

 そんな風に三十四のいい大人がガキみたいなことを書きそうだから、返事も出せずにこうして思いあぐねてばかりいた。

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