「あ」の人(2)
のどかな春の昼下がり、まったく弾まない会話のかわりに食器の音ばかりがかわされます。
チャラチャラとスプーンを動かすお兄ちゃんのお向かいに座る「あ」の人は、静かにさっさとカレーを口に運んでいます。
私はと言えば、二人の食べる速さに呆気にとられながらお代わりをお給仕したり、お茶をついだりしていました。
そんな中でも我先にとカレーライスを掻きこみ終えたお兄ちゃんが麦茶を飲み干して「じゃあ、ちゃちゃっと済ませようか」なんて言いながらテーブルの上のお皿を雑にかき分け、一枚の紙を広げました。
「
藪から棒にそう言って広げられたのはお役所の届け出用紙で、左上に「婚姻届」と書かれていました。
「夫になる人」の欄には「城山好平」と硬い筆跡で書いてあります。
「しろやま こうへい」と、ふりがながふられています。
お年はやっぱりお兄ちゃんと同じくらいで、私より6つ上でした。
落ち着いた顔立ちの方ですが、想像していたよりもお若いのだな、と思いました。
庭の沈丁花の香りがふと漂ってきました。
台所から廊下を挟んだ客間の向こう、開け放した縁側の先の小さな庭に植わっている沈丁花にモンシロチョウがふよふよと遊んでいます。
柱時計がボーンと鳴って、見上げた視線の先の日めくりを見たら「4月1日」となっているじゃありませんか。
「わかった、エイプリルフールでしょ!」
お兄ちゃんにかつがれていると思ってそう言ったら、すごく渋い顔で睨まれました。
「お前ね、勇気出してプロポーズしに来た人にすごく失礼だから。ちょっと黙んな」
そう言われて「あ」の人を見れば、居たたまれないといった様子で身じろぎしています。
お兄ちゃんの言うことが本当なら「冗談だろう」と茶化すのは、確かに失礼なことだと言えるでしょう。
渋々座りなおすと、お兄ちゃんのお説教が始まりました。
おばあちゃんが亡くなった今、この家は遺っても、生活のためのお金なんてないこと。
お勤めしたこともない私に、自分で生計を立てるなんて無理中の無理であること。
結局のところ、お兄ちゃんは私の将来なんて面倒見切れないので、結婚したいと言ってきた「あ」の人イコール背広姿のお客様、つまり城山好平さんに私を押し付けようということのようです。
「あ」の人はずっと難しい顔のままでした。
「よろしいんですか?」と尋ねたら「こちらがお願いしたので」と頷かれましたので、私はため息一つで婚姻届にサインしました。
振り返ってみたら、なんて話でしょう。
お兄ちゃん達が帰った後、新居に移るべく大急ぎで冷蔵庫の掃除をして、荷造りもして、この家の片付けもして、もうへとへとです。
まったく、おばあちゃんが言っていたとおり “人生なんて一寸先は何が起こるかわからんもの”ですね。
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