「あ」の人(3)
4月2日 曇
おばあちゃん、新しい生活は前途洋々とは言えません。
男の人の一人暮らしってこんなに普通と違うものだとは思わず、びっくりしています。
お昼過ぎに迎えに来てくれた「あ」の人に案内されたのは、うちと同じ沿線でした。
昼間でも人通りの多い駅前通りを過ぎ、住宅街を入って少しのところにあるマンションの三階が「あ」の人のご自宅です。
小さな玄関を入ってお部屋は二つで、居間と台所もあります。
二つのお部屋に一つずつベッドがあって、北側の部屋には机と本棚もあって、いわゆる「あ」の人の書斎兼個室になっているようです。
台所の続きになっている居間にはご飯テーブルと食器棚、ソファとテーブルとテレビ。
お台所にはガス台と冷蔵庫と炊飯器と電子レンジがあります。
本当にそれだけなんです。
家に来る前に寄ったスーパーで「晩御飯は引っ越し蕎麦にしましょう」と乾そばをお買い物かごに入れようとしたら「あ」の人に止められて、お弁当を買った理由がわかりました。
お鍋はあっても片手鍋で、おそばをゆでられる大きさの鍋もなければザルもないんです。
この家にないものを上げたらきりがありません。
あまりのことに呆れ果て、今までどうやってお食事をされていたのか聞いたら「自分でするよりもスーパーの総菜とか、定食屋で食う方が確かだから」なんて、めんどくさそうに言うんですよ。
その証拠に、冷蔵庫の中身も缶ビールとパックに入ったお惣菜の残り、麦茶のペットボトル、わずかに使っただけのお味噌ぐらいしかありませんでした。「あ」の人が痩せているのも道理ですよね。
お夕飯はうちの冷蔵庫の掃除ついでに持ってきた作り置きのお惣菜と、置いてあった使いかけのお味噌と、戸棚の隅にあったパックのかつお節と乾燥わかめでお味噌汁を作って、スーパーの出来合いのお弁当を食べました。
かわいそうに「あ」の人は、ちゃんと出汁もひかないような即席のお味噌汁でも大変しみじみと「あぁ……うまい」なんて喜ぶんです。
食事を終えると「あ」の人は私を南側の部屋に案内して「仕事を持ち帰ってしまったので」と言って、北側の部屋に引っ込んでしまいました。
曇りとはいえほこりっぽいのはいやなので、ベッドの布団をベランダに出して風を通して、持ってきたトランクの中身をクローゼットにしまって、お台所をあれこれあさってみて、ないものはないことを確認して今に至ります。
「あ」の人は北の部屋にこもったっきりで、一切姿を見せませんでした。
明日からは家じゅうにうっすらと積もったほこりの掃除と、食生活の改善に着手しないといけません。
何はともあれ、人として普通に暮らせる環境を作るのが私の最初の課題になりそうです。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます