「あ」の人(4)

 4月9日 晴


 おばあちゃん、ここしばらく「あ」の人と口をきいていません。


 新生活が始まった次の日、朝の6時に物音に気付いて起きてみれば、背広姿の「あ」の人が玄関に向かうところでした。

 「お早いんですね」と声を掛けたら、いつものように「あ……」と言って、革靴に足を通しながら「新年度で忙しい時期なので」ですって。

 家でも遅くまでお仕事されていたんでしょう。目の下にクマが出ていて疲労の色が濃いのがわかります。

 「あ」の人は「伝言を置いといたから」と言い残して出勤されました。

 食卓の上にはレポート用紙に「食事の用意は不要です。必ず帰りますが、遅くなるので待たないでください」と固い筆跡で書いてあって、一万円札が数枚と家の鍵も置いてありました。


 私は、まず駅前まで行ってノートを一冊買いました。

 その足でおばあちゃんと私の家に戻って、掃除道具と食器、使いかけのお醤油や砂糖・塩とか、調理道具とかを持てるだけ持って帰りました。

 だって「あ」の人の家には何もないんです。新たに買うよりは安上がりだし、かまいませんよね?

 お昼過ぎに帰ってきてもお天気がもっていたので、私と「あ」の人のベッドのお布団を干して(本当はシーツやカバーを洗濯したいところでしたけど、替えがなかったんです)、部屋中に掃除機をかけてようやく人が住める環境に近づいてきました。


 余計な物がほとんどないので掃除は楽ですが、困ったことがあります。

 何故か、家電製品のほとんどに番号や使い方が貼ってあるのです。

 使い方通りに番号の振られた箇所を辿れば無事に使用できる状態になっています。

 例えば、電子レンジに蛍光ピンクの紙で「温めるときは①→②」と書いて貼ってあります。

 そんなもの見なくても「あたため」ボタンを押して「スタート」を押せば大概の電子レンジはその通りにしてくれるはずなのに、です。

 同じように、洗濯機にもエアコンのリモコンにも使い方が貼ってあります。

 正直、拭き掃除の邪魔なのではがしてしまいたいのですが、それもできません。

 なぜなら「あ」の人は大の機械オンチで、その貼り紙が無いと電子レンジを使うことすらできないのかもしれないからです。

 だとすれば「剥がしていいですか」と聞くのも、勝手に剥がすのもはばかられます。

 男の人はたいそう自尊心の高い生き物だといいますからね。


 私は残り物でご飯を済ませて、家計簿代わりのノートにお金の使い道を記入して、ついでに今日やったことも書いて、お金の残りをがま口に入れてテーブルに置きました。

 ずいぶん遅くまで待ってみたんですけど「あ」の人が帰ってくる気配がなかったので、23時にはベッドに入りました。本当でしたらどんなに遅い時間でも夫を待つものでしょうけど、新しい環境での労働は思いのほかくたびれたみたいです。


 次の日からお見送りくらいできたらと思って朝早くに起きるのですけど、いつも空振りなのか「あ」の人の姿を見かけません。

 それでも帰ってきていることは、テーブルの上に置いたノートに書き込みがあったり、タッパーにつめたお惣菜が減っていることでわかるのです。

 初日のページには「久々にぐっすり眠れた。布団干し、ありがとう」と、あの固い筆跡で書かれていました。

 そんな風に、私はノートに書きこまれる文章で「あ」の人の生存を確認するわけです。


 私が掃除や洗濯や料理をしたことに、固い文字が「ありがとう」と伝えてくる。

 文字をなぞってどんな声だったかと思い出そうとすると、例の戸惑うような、ためらうような「あ」ですから、少し寂しいと思いました。



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