「あ」の人(5)
4月12日 晴
おばあちゃん、昨日はとても月がきれいな晩でした。
家事を済ませてノートも書き終え、いつものように23時過ぎに南の部屋に下がろうと戸締りをしてリビングの照明を消したら、まだ部屋が明るいのに気づきました。
レースのカーテン越しに満月の光がリビングに射し込んでいたのでした。
月があまりに見事なので窓を大きくあけて見上げたら、夜のさわやかな空気に混じって漂うどこかの生け垣の花の香りも、何とも言えずに素敵です。
私はそのまま掃き出し窓に腰掛けて、束の間のお月見をすることにしました。
周りが緑地公園になっているせいかビルや街の明かりがまぶしくないので、天体観測にはうってつけの立地なのです。
ベランダはとても広々としているのに物干し竿とサンダルきりしかありませんから、栽培を計画中の大葉やミニトマトのプランターだけじゃなくて、デッキチェアなんかを置いてもいいかもしれませんね。
そんなことを考えてぼーっとしていたら、玄関からドタバタと物音がして、リビングに明かりがついて、人が駆け込んでくる足音がしました。
「あ……!!」
駆け寄ってきた「あ」の人は乱暴に私の肩を掴み、顔を覗き込んできました。
「あ」の人の肩越しに壁掛け時計を見たら、0時を過ぎていました。
びっくりしながら「おかえりなさいませ」と挨拶したら、大汗をかいた「あ」の人が気まずそうに顔をそらしました。
「……窓が全開になってるから、何かあったかと」
可哀そうに、遅くまで働いて疲れているはずなのに、私が強盗にでも出くわしたんじゃないかと心配をさせてしまったようです。
私の無事を確かめた「あ」の人は、額に浮かんだ汗をぬぐって力が抜けたようにしゃがみこみました。
私は申し訳なくなって、お月見をしていたことを白状しました。
子供みたいなことをして、と怒られるかと思いきや「あ」の人は深くため息をついて、私の隣に座りなおして月を見上げてくれました。
どうにも居心地のいい人、悪い人って、いますよね。
お兄ちゃんは居心地の悪い人の典型例です。お兄ちゃんがいると何を言ってくるかわからない、いつ爆発するかわからない爆弾と一緒にいるような、少しも気が抜けない時間が流れます。
でも「あ」の人は、ついこの間知り合ったばかりの、しかも男の人なのに一緒にいると気が緩むというか、なんというか―――つまり、どうやら、私はお月見をしながらうっかり寝てしまったらしいのです。
目が覚めたら自分の南の部屋のベッドで、着替えもせずに寝ていました。
「あ」の人はもう出社した後でしたけど、ノートには「またお月見でもしよう」と書いてありましたから、軽くもない私をベッドに運ばせてしまったこと、怒ってはいないのでしょう。
おばあちゃん、久々に「あ」の人と言葉を交わしたのはほんの少しでしたけど、
もっとお話しできたら、と思うのは、普通のことですよね。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます