「あ」の人(6)
4月14日 晴
おばあちゃん、私達二人でお出かけしました。
昨日、私はいつも通り家事をして、お夜食に食べてもらえるようにお惣菜を用意して、ノートに今日の家計簿をつけていたのでした。
そうしたら「あ」の人が帰ってきたのです。
まだ21時を少し過ぎたばかりの時間です。
慌てて出迎えたら、お買い物をしてきたのかビニル袋片手の「あ」の人がいました。
「ただいま」と言われたので「おかえりなさいませ」と返してビニル袋を受け取ると、冷蔵庫に入っていた缶ビールと同じものでした。
「ちゃんと同じのを買い置きしてあるんですよ」と言うつもりで顔を上げると「あ」の人の上着の肩に何かがついているのが見えました。
そっとつまんでみたら、薄桃色の花びらでした。
「可愛いお供がついてきたんですね」と花びらを見せたら「駅に行く途中の、あの桜並木かな」と教えてくれました。
私が「桜並木なんてあったんですね」と何気なく呟いたら「あ」の人はぎょっとしていました。
だって、私がいつも駅まで歩く住宅街を抜ける道には、桜並木なんてないのです。
そう話したら「あ」の人は有無を言わせず私の手を取って外に出ました。
「あ」の人と一緒に歩くのは初めてじゃありません。でも、手をつないで歩くのなんて初めての事です。
ずんずんと前を行く大きな手にひかれて夜道を行きます。
「あ」の人は住宅街に入らずに手前の緑地公園を一本入った道を下っていきました。
小高い丘を越えて薄暗い曲がり角を抜けたら、川沿いの遊歩道に満開の桜がひしめいていました。
この時期に合わせているのでしょう、桜並木をつなぐように提灯ランプが連なって、橙色の灯火が夜桜を美しく照らしています。まっすぐ歩けば駅にたどり着く道は近所のお花見スポットでもあるらしく、ちらほらと寄り添い歩く人がいました。
もう桜も満開で、夜風がわっと花びらを散らして吹き付けてくるのが爽快です。
花吹雪に笑っていたら「あ」の人が背広の上着を脱いで着せ掛けてくれました。
あったかくて、大きくて、当然自分のものではない匂いがしました。
不思議な気持ちでした。
私は「あ」の人に対して、とても恩を感じているのです。
おばあちゃんは私の祖母で血縁ですから、当然の義務として私を養い育ててくれましたよね。
お兄ちゃんはおばあちゃんを「束縛する」って敬遠していましたけど、私は嫌いではありませんでした。何もできない私を「家のことぐらいはできるように」と仕込んでくれたのはおばあちゃんですし、おばあちゃんは可愛いところもありましたし。
でも「あ」の人は、血縁でも何でもありません。
婚姻届にサインをしたと言っても、紙っぺら一枚の事なんですからいつでも私をほっぽり出すことができるのです。
夫婦というのはそういうつながりです。
だから、乞われてはじめたこの関係ではあっても、それでも「この人のためにできることをしたい」と、その時そう思ったのです。
着せ掛けてもらった上着を掻きよせて、前を歩く「あ」の人の腕を引きました。
「ん?」と振り返った「あ」の人に、私は意を決して「何かしてほしいことはありますか」と聞きました。
「あ」の人は突然の質問ですから当然面食らって、まじまじと私を見ていました。そしてしばらく口を開きませんでした。
それでもじっと返事を待っていたら、ふっと笑われました。
「名前で呼んでほしい」と言われて「そんなことですか?」と聞いたら「だって、いつも『あの……』って言いうだけで、呼んでくれないから」ですって。
「それはこっちのセリフです」と言い返したら夜風がざあっと吹いて、風からかばうように身を寄せ合った時「あ」の人が私の肩を引き寄せて「あ」と言い淀んで、それから「唯子」と言いました。
耳が熱くてしょうがなくてごしごしとこすっていたら、その手を取られてしまいました。咎めるように見上げたら、反対の耳のそばで何度も名前を呼んでくるのです。
その恥ずかしさに耐え切れず腕をグンと突っ張って体を離して「好平さんのいじわるっ」と言ったら、吹き出すように笑われてしまいました。
こんなふざけたことはしない人だと思っていたのに、男の人ってわからないもんですね。
それでも、いやだとは思いませんでした。
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