なんてことない夫婦の話
キノキリヲ
「あ」の人(1)
月がひどく明るかった。
真昼のように冴え冴えとした光線が遊具の輪郭を弾き、黒よりも黒い物影を地に這わせていた。
公園の中ほどにある小高い丘の芝生が照って、残暑厳しい九月の夜だというのに一面銀色に光って、霜が降りたように見えている。
その霜降る丘の頂点に据えられた石造りのベンチに、人が……女が一人横たわっていた。
脱ぎ捨てられた黒いパンプスに真っ白な手足、黒いワンピースに白い顔、長い黒髪。
祭壇に捧げられた生贄のように、その女はこの世のものではないように見えた。
恐る恐る近づいて、そっと顔をのぞき込んでほっと一息つく。
女は生きていた。
ただベンチに横たわりながら、夜空に上る月をまじまじと見ていたのだ。
不意に、黒く潤んだ目が、空に浮かぶ満月ではなく俺をとらえた。
唇が弧を描き「あら」と音をこぼした。
それを見て、俺は「きれいだ」と思った。
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4月1日 晴
おばあちゃん、私、結婚しました。
お婿さんは名も知らぬ見知らぬ人です。
急なことでびっくりでしょう?
今まで誰かとお付き合いしたこともないし、家庭を持つなんて考えたこともない私が、いきなり結婚ですもの。
おばあちゃんは「お前は出来が悪いんだからコツコツやりな」って常々言ってましたね。
その通りです。
私は頭もよくないし、器量よしでもありません。
だからおばあちゃんの言うように人様のご迷惑にならないように真面目に生きてきたつもりです。
去年の暮は怪我で入院なんてしたけど初詣の時のおみくじは大吉だったから、今年はいい年になるはずなんですけどねえ。
なのに何でこんなことになったんでしょう。
事の発端は、いつものようにお兄ちゃんでした。
今日のお昼に相変わらずの抜き打ちで「腹減った」ってメールしてきたから、お昼ご飯の準備をして待っていたら、うちに来たのはお兄ちゃんだけじゃありませんでした。
「おう」なんて片手をあげたお兄ちゃんの後ろには背広姿の男の人がいました。普通の背丈の痩せ型の真面目そうな人で、年の頃はお兄ちゃんと同じくらいに見えました。
とっとと家に上がるお兄ちゃんに置いていかれたその人は、私を見上げて「あ」と言ったっきり、金縛りにあったみたいに身動きされませんでした。
三和土と上がり框で見つめあうこと数秒で、私ははたと思いつきました。
お客様の視線の行きつく先は、私のおでこの傷のところでした。
去年の暮れの怪我は少し大きくて、額の生え際に沿って10センチほどの傷跡を残しています。すこしひきつれて、盛り上がってるところもあって、我ながらひどいものです。
普段はおろしている前髪で隠れますが、上がり框に立つ私を見上げるお客様からは傷跡が見えていて、それでびっくりされたのでしょう。
自分の見た目を良くしようなんてみっともないことはしませんけど、こんなものを見せびらかす気にはなれません。
そっと顔をそらしてお客様用のスリッパをお出ししたら気まずげに「お邪魔します」と、上がってくださいました。
お客様を客間にお通しすべきか悩んでいたら、お兄ちゃんはさっさと台所のご飯
テーブルのいつもの席に座って「こっちでいいじゃないか」って……本当にやることなすこと“お殿様”で困ります。
「はらがへった」ってうるさいお兄ちゃんと、肩身が狭そうに座るお客様にカレーと麦茶をお出しして、私も言われるままに同じテーブルにつきました。
状況がよくわかりませんが、お兄ちゃんがお勤め先の方に「おごってやる」なんて言って、無理やり連れてきたんでしょう。
お兄ちゃんはガツガツとカレーを掻き込むだけ。
お客様もただ黙々とカレーを口に運ぶばかりです。
どうせ何を聞いても答えてくれないお兄ちゃんに聞く努力を放棄して私もカレーを食べはじめたら、お客様が「あ」と一言おっしゃいました。
顔をあげたら、お客様はスプーンを片手に正面に座る私に何か言いたげです。
次の言葉を待っていたら、口をつぐんでカレーを口に運んでいました。
「まずいの?」と尋ねるお兄ちゃんに「いいえ」と即答して「おいしいです」と言われたので、ほっとしました。
うちのカレーはおばあちゃんから教わった、鶏肉の、市販のカレーのルウで作る、いつものあれです。
だから美味いも不味いもないと思うんですけど、それでも嬉しいですよね。
「ありがとうございます」と褒めていただいたお礼をしたら、お客様は私をまじまじと見てから、何かをあきらめたようにスプーンを動かすのでした。
名前も知らないこのお客様を、私は心の中で「あ」の人と呼ぶことにしました。
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