「あまね」という女(6)

 で、年末のクソ忙しい時期に哀れな僕の妹は電車に飛び込んでくれた。


 搬送された病院で手荷物を調べ、僕が世帯主名になってる保険証を持っていたから身元が割れたらしい。

 通勤ラッシュの時間帯ではなかったこと、他に怪我をするような乗客がいなかったことなど、いろんな条件から、幸運にも賠償金請求はされなかった。

 まったく意味が分からなかった。

 これから人生の春を味わうはずの妹が、自殺を図る理由があるだろうか。

 好きな男と一緒になろうとしていたんじゃなかったのか。

 相手の男と何かあったのだろうか。

 僕は自分の放任主義を、生まれて初めてほんの少しだけ、いささかばかりか後悔した。

 年が明けて妹が一般病棟に移り、病室を留守にしている時のことだった。

 見舞いに来てすれ違いになった僕は、妹の個室で椅子に腰かけ足をぶらぶらさせながら時間をつぶしていた。

 そこに一人の男が飛び込んできた。

「あ……」

 男が僕と空のベッドを見比べて言葉を選びかねている。

「どなたさま?」

 そう声をかけてやると、口をもごつかせて固唾をのんだ。

「しろやまこうへいといいます……。あまね……あまねさんは無事ですか?」

 中ぐらいの背で、やせ型の、真面目な、身持ちの固そうなサラリーマン。

 その顔を見て、あまねに結婚を申し込んだ勇敢な男だと見当がついた。

「『あまね』は居ないよ」

 顔色を失った男に、僕はふかーく息を吸った。

「『唯子』なら居るけどね」 

 そう、彼の言う「あまね」は居なくなってしまった。

 事故で巨額の賠償金を払わずに済んだあまねは、かわりにもっと大事なものを支払った。

 事故をきっかけに、はじめに記憶をなくした6月から12月の今までのことをすべて忘れてしまったのだ。

 自由にのびのびと青春を謳歌していた半年を忘れ切って、ババアの葬式からここまで、今まで通りにあの家で過ごしてきたと思っている。

 あのクソつまらない「唯子」に戻ってしまったのだ。

 日を変え場所を変え、僕は城山さんと情報を交換し合った。

 城山さんのもとでは、唯子は「あまね」と名乗っていた事。

 11月ごろから半同棲のように暮らし、クリスマスにプロポーズしたこと。

 『すぐに返事がしたいんだけど、少し考えさせて』

 そう唯子の筆跡で書かれた手紙も見せてもらった。

 城山さんは、自殺をさせたのは自分だと。追い詰めたのは自分だと、悔いていた。

「いいじゃないですか、今の状況。好都合ですよ」

 嫌悪を込めてにらみつけてくる城山さんに、僕は朗らかに笑ってやった。

「だって、あいつ忘れちゃったんだよ。死にたいと思うのはよっぽどの負の感情だと思うけど、それも忘れられたんだったら御の字じゃない?」

 だいたい僕が腹を割って話すときょとんとする人が多いけど、城山さんは話が早かった。

「……許していただけるってことですか?」

 唇を引き結んで、眉根を寄せて。

「許さなかったら、僕があいつに怒られるよ」

 その時の城山さんのお辞儀ときたら、僕の人生の中で一番深い角度でされたやつだった。


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