「あまね」という女(5)

 6月に入ると床から這いあがる湿気がじわじわと靴下にしみこむような、そんなこの家が僕は大っ嫌いだった。

 僕と唯子を引き取ったババアの持ち家であるこの日本家屋の平屋建ては、六畳間が5つと納戸と台所。せまい庭に庭木をこれでもかと植えていて、風通しの悪い事この上ない。

 広くもない、狭くもない。屋根が低くて古くっさーい家だ。

 暇つぶしにしていた納戸の古本あさりにも飽きて、帰ってきてからずっとめそめそしていた唯子をからかってやろうと部屋をのぞいたら、昔と変わらず自分の部屋の壁際に布団をのべて呑気に丸まって寝ていた。

 蹴り飛ばしてやりたかったけどぐっとこらえた。

 まだ夜は浅くて、柱時計がボンボン鳴る音も回数が少ない。

 今日は一晩、唯子の様子見のために、大嫌いなこの家に寝泊まりしなきゃいけない。

 ―――貸しプラスいち。

 心の中で勝手につけている貸し借り帳に一つ追加すると、客間に適当に布団を引いて、寝転がりながら煙草に火をつけた。

 天井にゆるゆると立ち上る煙に、古い昔の焼香の煙を思い出す。


 僕が17で唯子が11の時に両親が立て続けに死んだ。

 未成年の僕たちの引き取り手は母方の祖母であるババアだけだった。

 ババアは口が悪くて前時代的で、すべてに口を出し束縛してくる手合いだった。

 僕は当然反旗を翻して家に寄りつかず、とっとと自立して家を出ようと必死に勉強し、バイトに明け暮れていた。

 でも、もともと甘ったれだった唯子はそうはいかなかった。

 ババアの口出しにすべて是と言い、ババアの価値観をすべて受け入れる、今でいえばモラハラを笑顔で受け入れるダメ女に育った。

 それでも「唯子がそれを選んだのだから」と、僕は思った。

 ドジで要領の悪い唯子がババアの庇護のもとにうまくやっているのなら、それはそれで生きる術だろう。

 ババアが死んだら、大っ嫌いなババアの匂いが染みついているこの家を早々に取り壊して小さなアパートでも建てて家賃収入で暮らしていけば、若い女の一人ぐらい楽に生きていけるだろう。

 そんな算段をしながら首を長くして待っていたら、ようやくババアが死んだ。

 会葬者のほとんど居ない寂しい葬式を済ませて四十九日を過ぎたあたりで、僕はおかしいぞ、と気が付いた。

 唯子が呆然と立ち尽くしたり、起きてこない事があった。

 なんの病気かと思って病院に連れていったら、ついた診断名は思いのほか深刻だった。

 

 『記憶障害』

 

 唯子は、11歳以降の記憶をすべて失っていた。

 つまり、ババアと暮らし始めてからの記憶をすっかりなくしたらしい。

 ババアが死んで、唯子も死んだ、ということだ。

 それが去年の6月のあたりのことだ。

 僕は「なんてラッキーな奴だ」と思った。

 ババアに台無しにされた人生をもう一度やり直せるのだから。

 唯子本人にしてみたらババアに仕込まれた家事能力を一切忘れてしまって、自炊も何もできなくなってしまったのだから大変だったろう。

 それでも、最低限の買い物の仕方や交通機関の使い方を教えたら、あとは好きなようにするようになった。

 今までババアの言いつけに従って化粧の一つもしなかったのに、薄化粧を覚えるようになった。アクセサリーなんかつけてあちこちに出歩くようになった。

 月々渡している小遣い以上に金銭を要求してくることもなく、今まで外に働きに行くことも一切なかった子が、なんのバイトをしたやら、まあまあ稼いでくることもあった。

 暑中見舞いの差し出し人に「寒川かんがわ唯子」ではなく「寒川あまね」なんて書いてきたのもその頃のことだった。

「唯子なんて古臭い名前はやめて「あまね」にしたの。そのほうがかわいいでしょ?」

 そんなことを言って、にんまりと笑う。

 へらへらと薄ら笑いをして人の顔色を伺う貧相なネズミみたいだった唯子とは大違いだ。

 記憶をなくすというのも案外悪い事じゃないと思えるようになった。

 10月ごろから僕も自分のアパートに帰った。

 目を離しても大丈夫だと思えるようになったからだ。

 12月に入って、あまねから「相談したいことがある」と連絡があった。

 驚いたことに、今まで男のおの字もなかった奴が付き合っている男がいるという。

 その男はあまねが記憶をなくしていることを知らず、ろくに素性も知らせていないにも関わらず「結婚しよう」と言ってきたそうだ。

 見せられたのは、どこかの観光地で撮ったらしいツーショットの写真。

 「城山好平」というその男は真面目そうな表情を少し崩して、傍らのあまねを柔らかく見つめている。

「で、お前はどうしたいの?」

「わかんない。好平のことは好きだけど……でも」

 写真を返す僕に、あまねは憤然として吐き捨てた。

「自分が記憶をなくしたことがこんなに悔しいの、はじめて」

 それに対して僕は「好きにしなさい」と鼻で笑って帰ったような気がする。


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