「あまね」という女(2)

 6月5日 


 おばあちゃん、勇気をください。


 私は大それたことをしようとしています。

 考えれば考えるほど無謀で、手が震えそうです。

 それでも成し遂げる勇気が出るように、駅近くのカフェに入っていつもは飲まない苦いコーヒーを注文して、気持ちを奮い立たせています。

 目下の問題は「小さいサイズ」を注文したはずのコーヒーが、何を間違ったのか「一番大きいサイズ」がきてしまって、カップの中身がなかなか減ってくれない事です。


 今朝、好平さんが家を出る物音を聞いてから南の部屋を出ました。

 台所をのぞいたら朝食用に出しておいたお味噌汁とおむすびを食べてくれたようで、お箸と使い終わったお椀やお皿が流しに出してあります。

 好平さんの大きな手にぴったりの、大ぶりのお椀とお箸。

 それを片付けて残りのお味噌汁が傷まないようにお鍋を冷蔵庫にしまって、しばらくぼんやりして、10時を過ぎたくらいに家を出ました。

 いつもの駅への道ではなく、緑地公園を一本入った道に下っていきます。

 曲がり角を抜けたら、川沿いの遊歩道に緑波打つ葉桜がひしめいていました。

 トランクを引き引き歩いていたらあのお花見をした夜の、好平さんの大きな手を思い出しました。

 温さとさわやかさを混ぜた6月の風があの夜の桜吹雪を思いださせて、はじめて私の名前を呼んでくれた時の温かさがよみがえりました。

 胸が痛かったです。

 おばあちゃん、私は好平さんが薄情な人ではないと知っています。

 私みたいな自立できない女にも手を差し伸べ、無理に関係を持とうともしないで、気持ちの準備ができるのを待ってくれます。

 あまねさんのことだって胸に秘め、私と前を向いて歩こうとしてくれていました。

 私にはどうしても、そこが腑に落ちないのです。

 好平さんのように情の厚い人が愛する人を失ってすぐ、4か月もあかないうちに他の女と結婚するなんてありえないと思います。

 だから、私はなんとかあまねさんのご遺族を探し出し、あまねさんが好平さんとの結婚を思い悩んでいた理由をつきとめたいと思います。

 それこそがあまねさんの自殺の真相だと思いますから。

 そしてどんな真相でも受け止められるように、好平さんを支えていきたいのです。

 好平さんには幸せになってほしい。

 心細くても、踵を返して好平さんの家に戻ってはいけないと肝に銘じて前に進みます。

 まずはあまねさんの事故現場である最寄り駅まで行って、駅事務所に行ってみようと思います。去年の暮れの話ですから、誰か知っている人もいるでしょう。


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