「あまね」という女(1)
「私がその辺にうじょうじょしている虫の一匹だったらどうする?」
ごろりと寝返りを打ち、俺の腹に頭を乗せてきてだしぬけにそんなことを言ってくる。
冬の夕焼けの甘い光がカーテン越しにさしてきて、あまねの寝乱れた髪をキラキラと光らせていた。
「カゴに入れて飼う」
その髪を撫でつけてやりながら即答した俺に、あまねは不満そうに口をとがらせる。
「虫よ? いっぱいいる中からどれが私かわかるの?」
「わかるさ。ぼーっと月を見ていたり、俺にすり寄ってくるのが居たらそいつだ」
「やぁね、うぬぼれちゃって」
ふざけて腹の皮にかみつこうとしてくるあまねを捕まえて、腕の中に引き入れる。
『私が私じゃないものになったらどうする』
あまねは時々いたずらに、でもどこか真剣にそんな趣旨の禅問答を仕掛けてくる。
そのたびに、こうして布一枚隔てない仲になった今でも置いてけぼりにされるような、ささやかな不安を感じさせられる。
それでいて世界に存在する男は俺一人だと思わせるような熱い口づけを寄こしてくるのだから、女というものはよくわからない生き物だ。
「そんなに私のこと好きなの?」
YESとしか答えようがない問いをして返事をねだるなんて、飴玉をせがむ子供みたいだ。
それでも、たかが言葉一つで安心するならいくらでも言ってやる。
「ああ、そうだよ。好きで好きで、好きでたまらん」
言わせたくせに「もう、恥ずかしい人」なんて逃げるから、問答無用で首や肩や胸にかじりついて「他愛もない幸せ」をひたすらに貪っていると、休みの一日なんてあっという間に過ぎ去っていった。
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6月4日
おばあちゃん、私、黙っていられませんでした。
過去の女性関係なんか知らないふりをして、今からの生活に全力を尽くすべきだと頭ではわかっているのです。
でも、どうしても我慢できませんでした。
だって、あまねさんと私の間には4か月も空いていないんですよ。
そんな薄情なことって、ありますか?
意を決した私は日中のうちに冷蔵庫の中の生ものをすべてお惣菜にして、家事を前倒しして、家を出る用意をしておきました。
トランクにすっきり収まった私の私物に比べて、段ボール箱にみっちりと入っていたあまねさんの荷物を思い出し、少し卑屈になってしまいました。
……いえ、別に、たくさん物を持ちたいわけではないのです。
ただ、この家で過ごしたあまねさんの存在感が物の量としても表れているようで、なんだかもやもやしただけです。
ドキドキしているうちに好平さんが帰ってきました。
お風呂に入ってご飯を食べて、ソファでくつろごうとしていた好平さんをテーブルに呼んで、例の手帳を出しました。
勝手に読んだことをお詫びして顔を上げると、好平さんはひどい顔色をしていました。
「あまねはもういないんだ、どこを探しても、もういない」
「だから、唯子も、彼女のことは忘れてくれ」
首を絞められてでもいるように苦し気な顔で、そう答えてくれます。
「とても好きだった人なんでしょう? そんなに簡単に諦められるものなんですか?」
問い詰める私に好平さんは唇を引き結んで言いました。
「……あまねを追い詰めたのは俺だ。俺が諦めないわけにはいかないんだ」
好平さんの言葉が頭に入ってきませんでした。
「追い詰めた」って……なにがあったんでしょう。
理解できずに呆然とする私を置いて好平さんは北の部屋に行き、新聞の切り抜きを持って戻ってきました。
私の前に置かれた切り抜きの日付は去年の年末の事。
『 身元不明の女性が重体 飛び込み自殺の可能性も 』
この家の最寄り駅で起きた人身事故のニュースが、センセーショナルな見出しでごく小さく報じられています。
電車に飛び込み意識不明の重体となった女性は身元が分からないため、新聞の記事には女性の詳細がつづられていました。
『二十代後半から三十代の女性、長髪黒髪、白いセーターに黒いスカート、身長155センチ程度、ルビーの指輪を所持。この女性に思い当たる方は―――』
「その指輪は、婚約指輪としてあまねに渡したものだ。記事を読んですぐに搬送された病院を探して行ったら、あまねはもう……」
テーブルの上に乗せられた好平さんの両手のこぶしが、強く握りしめられています。
可哀そうに、と思いました。
記事の日付から見れば、好平さんにプロポーズされて思い悩んだ挙句に姿を消した頃のことです。
自殺をさせてしまったのは自分だと、責めても責めても足りなかったでしょう。
でも、それならなおの事です。
「どうして間もおかずに私と結婚したんですか」
「愛していた人を亡くしたのは同情します。でも、こんなの変です」
「好平さんの気持ちを理解できません。実家に帰って少し考えてきます」
トランクを片手に玄関に向かう私を、好平さんは慌てて追ってきました。
「行くのはわかった……けど、明日にしないか? 外は暗いし……」
子供を心配するように言われるのが腹が立ちましたが、玄関に立ちはだかる好平さんがどいてくれる気配はありません。
それに逆らうのはやめて、南の部屋に戻りました。
明日、好平さんが出社するのを待って家を出ようと思います。
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