「夫婦」という関係(3)

 5月20日 


 おばあちゃん、知っていたかもしれませんが、私は大馬鹿です。


 私は考えなしでした。


 昨日、夕食のあと、ソファに身を預けた好平さんが眠りに入るのは、いつものようにあっという間でした。

 次の日はお休みだったので朝食の用意を簡単に済ませ、寝息を立てる好平さんにひざ掛けをかけて、ソファのスプリングを揺らさないようにそっと隣に座りました。

 私はこの時間の好平さんが好きです。

 今までのように帰ってきてすぐ北の部屋にこもったりせず、自由に使えるわずかな時間をこうして寛いでくれているのが、私に気を許してくれるように感じるからです。

 皺の寄りがちな眉間が緩んでいるのも、力が入った肩が丸くなるのも見ていて飽きません。

 もう少ししたらほうじ茶でもいれて起こそうと思いながら、そっと手を触ってみました。

 いつも寝息が深い時を狙ってそうしています。

 血管が浮いているのも、皮膚の感じが違うのも、手が大きいのも面白いんです。


 その時も、いつものようにごくごくそっと触っていました。

 そうしたら、起きた気配も何もなかったのにパッと手を取られてしまいました。

 ぐっと引かれた手の力だけで、気づいたら好平さんの腕の中にいました。

 好平さんは寝ころんだまま、私を抱きしめた形になっています。

 見上げた顔は目をつぶったまま、それで、ふかぁくため息をつかれました。

 つかまれた手は、お返しとばかりに指が這っています。

「唯子」

 寝起きのかすれた声が名前を呼んできます。

「俺の事、どう思ってる?」

 その質問に、私はすぐに答えられませんでした。

 好平さんは私にとっては救世主のような人です。

 一人では生きる力のない私を妻にしてくれて、養ってくれて、やることを与えてくれています。

 でも、それは望まれている答えではないと思って、とっさに口に出せませんでした。

 それでも必死に考えて「好平さんは素敵な人です」と答えました。

「その『素敵な人』とセックスしてそいつの子供を産んで育てて、爺さんになったら今わのきわに死に水を取ってやれそう?」

 好平さんの言い草にぎょっとして身を起こそうとしても、肩をつかむ力が強くて身動きできません。

「女にとっての結婚ってのはそういう事なんだって。よっぽど惚れた相手じゃないと、自分の身を削って命を残したり、人生を捧げることなんてできないって、そう言う人がいたよ」

 頭に響くドンドンとうるさい鼓動は、私のものか好平さんのものかわかりません。

 好平さんは何も言えない私の頭を子供をあやすように一つ撫でて、北の部屋に行ってしまいました。

 取り残された私は、自分の馬鹿さ加減が悔しくて悔しくて、しょうがありませんでした。

 夫婦になるということは、好平さんが言う通り「男女のそういうこと」も込みの筈なのに、どうしてそこまで考えが至らなかったんでしょう。

 好平さんは私が考えなしだということなんて、とうの昔にお見通しだったのです。

 それで、私の至らなさを教えてくれたのです。

 うまくいっていると思っていたこの生活が、好平さんにとっては本来あるべき夫婦の姿とは程遠いもので、ずいぶん我慢をさせてしまっていたのだと思い知らされました。

 どうしたらいいかわからなくて、私は自分のベッドにもぐりこみました。

 アイロンの匂いのするきれいなシーツが憎たらしいです。

 こんなことで満足していた自分を叩きたくなります。

 

 次の日、つまり今日も、私はずっとベッドの中にひきこもっています。

 好平さんが心配して声をかけてくれたり、不格好なおにぎりを握って部屋に差し入れてくれましたけど、もう、一生顔なんて合わせられないと思います。





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 そんなことを書いて少しもたたないうちに、生理的欲求に負けてトイレに行くことになりました。

 泣きはらした不細工な顔をさらすのも嫌で、替えのシーツをかぶって部屋を出たらすぐに好平さんがいて、お互い大声を出してしまいました。

 そりゃそうです。シーツをかぶったお化けが部屋から出てくれば、大の大人でものけぞって驚くことでしょう。

 シーツごと私を捕まえようとする好平さんに「トイレ!」と叫んでお手洗いに駆け込んで用を足している間、ここから出たくありませんでした。

 それでも、ノックされれば出ざるを得ません。

 シーツをかぶりなおしてお手洗いから出ると、好平さんに手を引かれてソファに座らされました。

 シーツ越しに両手をつかまれ「ごめん」と謝られました。

「押しかけ亭主のくせに、偉そうなこと言ってすまなかった」

 確かにそうなのです。ある日突然現れて「結婚したい」と言ってきたのは好平さんの方です。私の心が同じ高さにないことをなじられるいわれはありません。

 私は怒っていいはずです。それでも、私はその手を放したいと思っていないことに気づきました。

「私、今まで誰かとお付き合いしたことがないんです」

 恥ずかしながら自分の男性経験のなさを白状しました。

「したことがないことを上手にできません。でも、好平さんの側には、居たいです」

 わたしの頭に、シーツの向こうから好平さんの頭がコツンと当てられました。

「ありがとう」

 布一枚ですが、真っ赤になった顔を見られたくなかった私にはちょうどいい距離でした。

 夫婦らしくない夫婦の私たちですが、初めての夫婦喧嘩らしきものは、それで手打ちになったようです。



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