第8話『トカゲ侍と陰陽師エルフ』その八

 リンタロウの手にある刀は、ドワーフの名工、初代グレイゲルガルが鍛えた豪刀『鯨切(くじらきり)』である。通常の刀より長く、厚く、重い。ピアの式神が宿り、水気を含んだ刃と化している。


 火を剋すのは水だ。


 リンタロウは村の入り口に生えた木の背後に隠れて相手を待つ。

 妖魔はゆっくり、二足で歩いてくる。確かに、全体のシルエットは熊だ。背中が黒紫に燃えている熊である。だがこいつは、以前対峙した火熊の比ではない。

 怪物だ。


 七尺三寸のリンタロウを優に見下ろせるであろう巨体。目は狂おしく吊り上がり、禍々しい黒紫の炎が背から立ち上る。手足は丸太の如く太く、のしのしと歩くさまはまるで小山が移動しているようだ。息を吐くごとに、大きな牙が生えた口の端からも火が漏れ出している。


 そんなやつがこちらへ向かってくるのだ。正直に言って、怖い。

 だがここでリンタロウが逃げ出せば、村が犠牲になる。

 そして、ピアも。

 逃げるわけにはいかない。


 相手はのっそりと歩みを止めた。周囲に目を配り、罠や伏兵がないか警戒している。低く唸り声をあげた。

 そのまま進もうとしない。


「隠レテイルナ」

 金属をこするような声で妖魔が喋った。

 リンタロウは驚いていた。

(人語を解すのか)

 ヘイスケはそんなことを言っていなかった。一日で成長したのかもしれない。


 リンタロウは手の内の鯨切を見て、それを鞘に納めた。代わりに脇差を抜く。脇差といっても、普通の打刀ほど長さがある代物だ。

「何しとん。普通の刀じゃ効かん言うたのに」

 離れた塀の陰から見ているピアが、理解できないというように焦れて呟いた。


 リンタロウは木の背後から出て、姿をさらした。

 双方の距離、およそ五間(約九メートル)。だがまるで目の前にいるような威圧感だ。


 熊はリンタロウを観察し、値踏みしているような素振りを見せた。凶暴な知性を宿した瞳がリンタロウを射抜く。通常の人間より大きい体格、そしてその異形の頭部に、警戒心をあらわにしている。

「何者ダ」


 リンタロウは深く長い呼吸に努めている。

 恐怖。焦り。雑念。全ての思いを抱え込んだまま一つの糸に練り上げる――それが意流の教えである。純粋一途ではない。雑駁一途だ。


 次の瞬間、巨大な岩が崖から転がり落ちるような勢いと重量感で、妖魔はリンタロウへ向かって迫る。リンタロウの持っている武器がただの刃物であることを見切って、傷つけられることはないと確認したかのようであった。


 リンタロウも正面から間合いを詰める。

 直前で体当たりをかわす。同時に脇差で斬りつけた。だが、まるで霧を斬ったかのように手応えがない。妖魔の体をすり抜けてしまい、傷一つつけられない。これがピアの言っていた、普通の武器では効果がないということか。

 妖魔がにやりと嘲笑したように見えた。牙を剥き出すと、炎の息が漏れる。


 攻撃をすかされて無防備なリンタロウへ、妖魔の爪の一薙ぎ! 上からベアークローを叩きつける。

 遠くのピアが小さく悲鳴をあげた。


 必殺の速度と質量を備えた妖魔の爪が、抗いようのない圧倒的な力でリンタロウの全身を真っ二つに切り裂き粉砕する――彼女にはその未来が見えたのだ。それほどの一撃であった。


 実際、そうなるはずだった。

 鯨切に、ピアの式神が宿っていなければ。


 リンタロウはこのときを待っていた。

 防御を考えず攻撃に妖魔の意識が集中するこの瞬間、鯨切を抜刀!

 下から切り上げて妖魔の攻撃を迎え撃つ。


 水剋火……陰陽の理が、振り下ろされた妖魔の腕を、バターを切るようにたやすく両断した。

 傷口から大量の血と、黒紫の炎が噴き出す。

「グオオオオッ」

 妖魔が苦痛の吠え声をあげた。苦痛と、驚愕の声だ。なぜ自分が傷つけられているのか、目の前の男はたかが知れた刃物しか持っていなかったはずなのに。そういった吠え声であった。


 その目がリンタロウの刀を捉える。水を滴らせ、切った血を洗い流す刀。妖魔の目に浮かぶ苦痛の中に、理解と焦りの色が生じた。

 リンタロウが自分を傷つけることのできる武器を持っている、ということがわかったのだ。


 はじめに鯨切を納めたのはこの奇襲のためであった。この妖魔は賢い、ならば鯨切の刃が水気を帯びていると悟られないほうがいい。警戒して戦うのを避けられたらどうしようもない。だから脇差で油断を誘った。


 妖魔は後ろへ跳び退る。反転して逃げ出す。

(ここで仕留めなければ)

 今夜を逃して、また別の日に村が襲われたのでは意味がない。

 逃がさない。リンタロウは人間離れした速度で追う。


 夜に吹く重量級の風が二体。元来た麓のほうへ駆ける妖魔、追いすがる獣還りの男。双方常人では考えられないスピードだ。

 リンタロウは追い続ける。もう少しで鯨切が届く距離だ。走りながら刀を構え――


 妖魔はその瞬間に逃げるのをやめ、リンタロウへ突っ込んできた。完全に虚を突かれたタイミングであった。

 妖魔は爪での攻撃をせず、体当たり! リンタロウはなんとか踏ん張って耐える。


 だが妖魔はそのまま密着して、リンタロウを抱きとめた。

 がっちりとベアハッグして締めあげる。距離を取れば刀で斬られる危険がある。むしろ距離を潰して刀を使えないようにすべきだと、すでに学習しているのだ。

「ぐっ……!」


 さすがに単純な腕力では勝てない。暴れるリンタロウの体がきしむ。

「燃エテ、死ネ!」

 炎が背中だけでなく妖魔の全身を覆う。リンタロウは黒紫の火に焼かれる。服が焦げ始めている。鱗が火に炙られる。彼の体から力が失われていく……


「リンタロウ! なんとかせえ!」

 ピアのふりしぼったような声が彼の耳に届いた。


「うおおお!」

 渾身の力で拘束から脱出した。片腕が途中からなくなっているおかげで、妖魔の締め付けも万全ではなかった。


 体の前面がひりひりと熱い。感覚がなくなっている部分もある。だが今はそれを気にするときではない。

 鯨切を握り直す。


 リンタロウは妖魔の脇腹から肩口へ斜めに斬り上げた。血、そして火が散る。妖魔は片腕の爪で反撃。だが力がない。それをかわして今度は上段から。最後のあがきでもう一度火球を放った妖魔を、火球もろとも全力をもって斬り下げた!


 妖魔はあおのけに倒れた。傷口から燃え上がる炎が、制御を失ったように自らの体を焼く。悲鳴をあげながらもがいていたが、やがて動かなくなった。


 リンタロウは鯨切を血振り。刀身から湧く水が、村雨のごとくたばしり、妖魔の屍骸へと降り注いだ。

 ふっと煙のようなものが刀身から立ち上ったかと思うと、鯨切は一瞬にして乾いていた。式神が離れ水気が失せたのだ。ピアが術を解いたのだろう。


 リンタロウは常に戻った愛刀を、静かに鞘に納めた。聞こえないだろうが、小さくピアに返事をする。

「なんとかしたぞ」

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